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作家 加藤幸子さん 追憶の風景 都立東京港野鳥公園

2009年6月13日14時50分

:加藤幸子さん加藤幸子さん

 春、とても晴れたある日、東京都大田区の自宅からほど近い「東京港野鳥公園」に行ってきました。

 今年で開園20周年になるあの公園は、私が野鳥好きの人たちと一緒になってつくった都会のオアシスでもあり、北海道に生まれ、子供時代を北京で過ごし、都会で人生の多くの時間を過ごした私をナチュラリストの作家活動へといざなった原点のひとつです。

 ボランティアの人たちがつくった田にレンゲの花畑が広がっていました。豆科のレンゲソウは、昔から地味を豊かにするとされ、「里山」の要素としては欠かせないものです。都会ではなかなかお目にかかれないキンランの黄色い花弁の鮮やかさ。クヌギやコナラの雑木林は武蔵野の再現です。

 私が特にお気に入りのスポットは、自然生態園の一角にある「4号観察小屋」。森に囲まれたこぢんまりした淡水池が見えます。こここそ、31年前の78年、野鳥公園の前身として役所(東京都)から私たちが野鳥たちのために最初に確保した場所なのです。

 地元の親子自然観察会「小池しぜんの子」の代表だった私が、大井埋め立て地という殺伐な響きを持つ存在と渡り鳥の関係を知ったのが、1975年の2月。枯れ葦(あし)がびっしりと茂っている水辺に立ち、英国の詩人T・S・エリオットの「荒地」が頭の中をよぎったことを今でも覚えています。水上には、数千羽のカモやカモメの群れが楽しそうに浮いていました。あの瞬間からまさか十数年にわたる活動に身をおくとは想像もしませんでした。

 70〜80年代の右肩上がりの経済成長期、その先端を走っている大都会のど真ん中で市場という食の拠点建設計画地の「荒地」が、実は、愛する野鳥たちの生息地だったとは!

 「人間のためではなく、野鳥のためですか?」。当時の役所側の反応でした。当たり前かもしれません。まさに「野鳥のため」に、「文学主婦」だった私が人生の一大決心をしたのです。

 6万人を超える署名活動を成功させても、行政や議会の方針は紆余曲折(うよきょくせつ)、難航の数々。行政や企業に食ってかかるのではなく、市場原理という経済も私や仲間たちは勉強しました。そのうえで説得を重ね、行政マンからも理解者を得たのです。公園という公的なものをつくりあげるには、政治、企業、市民のそれぞれの論理のバランスがとても大事。それは環境再生への連鎖ともつながる論理です。

 運動中の83年、芥川賞を受賞したら、行政側の態度が急に丁寧になり、驚きました。その年に私たちの活動団体と東京都は修正案に合意、野鳥公園の基本計画は、日本野鳥の会に都港湾局から委託されました。

 野鳥公園のカイツブリたち。もうすぐ雛(ひな)たちを背中におんぶして移動します。昔、全共闘の若者が同世代の警察官と激突していたころ、私も赤ん坊をおんぶしながらビートルズを聴いて、婦人雑誌投稿の賞金で映画音楽全集のLPを新橋で買ったりしました。子供のころ戦争も経験したし、つまずいたこともいろいろあったけれど、野鳥公園設立運動はほんとに劇的な想(おも)い出。

 「鳥も、人も、いつまでも」。東京港とつながっている潮入りの池でキアシシギやメダイチドリの上をジェット機が飛ぶのを見てそう願いました。

     ◇

 加藤さんは本来、理科系の方。自然と人間への観察眼は緻密(ちみつ)。自然と共に紡がれてくることばに豊かさと強さを感じます。東京港野鳥公園(指定管理者日本野鳥の会グループ)=03・3799・5031(羽毛田弘志)

     ◇

 加藤幸子(かとう・ゆきこ) 36年生まれ。83年芥川賞。野鳥愛好家たちの旗頭となり89年、東京港野鳥公園(約24ヘクタール)設立に尽力。著書に『心ヲナクセ体ヲ残セ』ほか。

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