2018/06/25

「違うはすてき」の精神で!
夢の実現は、そこから始まる

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札幌市から車で2時間。北海道赤平市は、1960年には約6万人が暮らす石炭の町だったが、94年に最後の炭鉱が閉山し、住民は約1万人まで減った。そんな町に、リサイクル用電磁石で国内トップシェアを誇る株式会社植松電機はある。社長と社員を合わせて24人の中小企業を一躍有名にしたのは、北海道大学とコラボしたロケット開発事業だった。「NASAより宇宙に近い」とまで言われるようになった町工場は、どのようにして生まれたのか。植松努社長(51)に聞いた。

いくら北海道とはいえ、植松電機の敷地は広い。約13万平方メートル。ひときわ目立つのが、高さ約57メートルの微小重力実験塔だ。この高さから重さ500㎏のカプセルを時速100㎞で落とすと、カプセル内部が約3秒間無重力になる。この3秒を求めて、日本中の研究者が赤平市を訪れる。「国内では唯一、世界でもNASAとドイツとうちにしかない施設」。植松社長は胸を張る。

敷地内にはロケットの実物や模型も置かれている。北大と一緒に開発したCAMUI型ハイブリッドロケットは、燃料にポリエチレン、酸化剤に液体酸素を使った低コストで安全性の高いロケットで、植松電機は、燃料部分以外すべての開発・製造を担当。2012年に超音速域の飛行に成功した。

植松社長は1966年、赤平市の隣の芦別市で生まれた。父は電機部品の修理業を営んでいた。「遠足に行くと、途中で石をひっくり返して裏に何がいるかをいちいち確かめるような子どもでした。やりたいことが次々に出てきて、注意力散漫と叱られることも多かったけど、読書は好き。ギリシャ神話から、南極探検したアムンゼンの伝記、手塚治虫の『ブラック・ジャック』まで幅広く読みました」。特に好んだのは、ロケットのような「メカっぽいもの」で、紙飛行機作りに夢中になった。

地元の工業大学を卒業後、航空機設計を手がける名古屋の会社に就職した。ところが、飛行機が好きでもないのに給料のために働いている同僚が少なくないことを知り、ショックを受ける。「仕事を研ぎ澄まそうとしない人と一緒にいるのが苦痛でした」。失意のうちに実家へ戻った。

当時、父は電磁石を使った製品を手仕事で作っていた。経験値では父にかなわない。そこで電磁石を自動設計するプログラムを開発。新発売したリサイクル用の電磁石が爆発的に売れ、34歳のときに事業を法人化した。「大企業と独占販売契約し、売り上げは倍、倍に増えていきました」

だが、好事魔多し。工場を建て増した矢先、その会社の社長が交代し、契約を解除された。残ったのは、売り先のない電磁石と2億円の借金だけだった。「あの時は本当に苦しくて、おカネのことしか考えられなかった。今にして思えば、一つのアイテムに依存して、売ってくれる人の顔ばかり見ていたのが間違い。大切なのは、使ってくれるお客さんが欲しいもの、喜ぶものを徹底的に作ることでした」。物作りの原点に立ち返り、事業を立て直していった。

北大でロケット燃料の研究をしていた永田晴紀教授と出会ったのは、ちょうどその頃だった。「子どものころからロケットを作りたかったけど、中小企業ができることじゃないと思い込んでいた。先生が誘ってくれたから、じゃあ、作りましょうってね」。試作しては失敗することの繰り返し。「完成するまでに30回近く爆発しました」と苦笑する。

ロケット事業はもうかってはいない。しかし、それで良いと思っている。「ロケットを作ったおかげで、世界的に有名な先生方と知り合えた。そこで得られた知恵や経験、人脈は何ものにも代えがたい資産。バランスシートには載せられませんけどね(笑い)」

現在は、電磁石事業もロケット事業も実務は若手社員に任せている。では、社長は何をするのか。「経営者の役目は、責任を取ることと判断をすること。その二つがフルに発揮できるのは未知の開拓です」。医療器具や、自動運転できるパワーショベル、南極探検用のソリなど様々な開発依頼が舞い込んでくる。子どものころに読みふけった「ブラック・ジャック」や「アムンゼン」が、今になって役立っている。

会社にとって最も大切なことは「力を合わせること」、会社の目的は「社会や人の役に立つこと」と断言する。北海道にいることもハンディではないと言う。「一番近い隣家まで500m。この環境じゃないとロケットエンジンの燃焼実験はできません」。中小企業ならではの強みはあるのかと尋ねると、「好きなことができること。あとはフットワークの軽さかな」と即答した。

目線の先には、これまでとはまったく違う未来像が広がっている。「AIで多言語翻訳が発達すると、人類史上初めて言語の壁のない世界を生きることになる。旅客機用のロケットエンジンが完成すれば、米国まで4時間かからずに行ける時代が来る。変化を恐れず、『より良く』を求めていくことが何より重要。急速に変化する世界の中で『違うはすてき』という精神を大切にしていきたい」

小学6年生の卒業文集に「夢は潜水艦を作ること」と書いたら教師に呼び出され、「潜水艦を作るにはお金がかかるし、頭が良くないと無理だ」と叱られた。同じように、人が夢を抱いて何かをしようとするとき、「どうせ無理」と周囲から否定されることはしばしばある。それで諦めてしまう人も少なくないだろう。だが、植松社長は「どうせ無理と言うのは、自分でやったことがない人だ」と喝破する。

「言葉で人の可能性を奪うのは恐ろしいことです。私はこの世から『どうせ無理』という言葉をなくしたくて、ロケット開発を続けてきました。田舎の町工場でもできるんだからって」。物事がうまくいかず、諦めそうになったとき、かけるべき言葉がある。「『どうせ無理』じゃなくて、『だったら、こうしてみたら』。この一言で、みんな元気が出てきます」