
ベンガル湾に面する南インドのチェンナイ。かつて「マドラス」と呼ばれた港町はいま、「インドのデトロイト」と呼ばれる自動車産業の中心地だ。日本からの出張者も多く、今秋からは成田から全日空の直行便が就航するなど、注目が集まっている。人口は490万人と、国内4位の大都市でもある。筆者は、社会人を新興国に派遣する日本のNPO法人クロスフィールズの「留職」プログラムで、昨年12月から2カ月間の予定で、チェンナイにある障害者雇用に取り組む企業でインターンをしている。この原稿では、2年前に施行された、障害者雇用をめぐる法律が、インド社会をどのように変えつつあるかや、拡大するインド市場で日本企業がビジネスを良好に進めていくうえでのヒントを探ってみたいと思う。

そもそもインドといえば、13億人を超す人口大国だ。ではこのうち、障害者はどのくらいいるのかというと、調査によってまちまちだ。家族がその存在を隠すケースもあり、正確な把握は難しいという。少し古いが、インドの2011年の国勢調査では、約2700万人と推定されている。東京、埼玉、千葉の1都2県の総人口に匹敵する人数だ。インドの総人口に占める割合は2.1%。ちなみに障害種別では視覚障害503万人、言語障害200万人、 聴覚障害507万人、運動機能障害 544万人、精神障害223万人、複数の障害がある人が212万人などとされる。また、障害者の識字率は54.5%で、全体の識字率(74.0%)に比べて低く、生活のケアのみならず、教育や雇用の機会の確保が課題となっている。
一方、さらに古い2007年の世界銀行の調査では、インドの障害者の数は4千万人から8千万人と言われており、日本の生産年齢人口7400万人に匹敵する人数だ。これだけの人が活発に働けるようになれば、社会にもたらすインパクトは計り知れない。
こうしたなか、2016年にインドで障害者雇用に関する新たな法律「障害者権利法」が制定された。この法律により、民間企業にも、障害者の雇用機会均等に関する方針を策定し、公表することなどが求められるようになった。また、バリアフリーの職場環境など、雇用環境の改善もあわせて求められている。この法律が施行されてから、民間企業の障害者雇用への関心も年々高まりを見せているという。

筆者のインターン先は、10年ほど前から障害者雇用に取り組むベンチャー企業「v-shesh」だ。2016年には障害者支援の功績が認められてインド政府から表彰され、注目されている。創業者のシャシャンクは40代半ば。大学院でMBAを取得後、長年にわたり銀行などの金融業界でキャリアを積んできた。その後、JICAなどで働いた経験のあるラジャとともに創業。チェンナイを中心に、デリー、ムンバイ、ベンガルールにも拠点を構え、障害者に就業訓練をしたり、企業向けに障害者雇用のコンサルティングや人材紹介を行ったりしている。自社でも障害者を雇用しており、チェンナイ事務所には3人が常駐している。事務を担うアンバルは片腕が不自由だ。聴覚障害者向けのトレーナーをしているラグビーも聴覚障害があり、多様な人材が心地よく共存するこの会社自体が、まさに障害者雇用の成功例といえる。

シャシャンクは、「障害者権利法の施行以降、企業から、障害者を採用したいが、どうすればいいかという問い合わせが増えた」と語る。そして、「物理的な環境を整えるだけでなく、周りの従業員が、障害のある従業員とどう接していいかわからないといった、心理的なバリアーを取り払うことも重要だとアドバイスしている」と話した。
筆者は日本では、障害を持つ方との接点がほとんどなかった(実際は、近くにいても気づいていなかっただけなのかもしれないが)。だが現在のインターン先では、指のない同僚が、腕だけで巧みにタイピングをしている隣で働いている。また、日常的なミーティングは現地語のタミル語をベースに、手話と英語が交じる形で行われており、手話しかできない聴覚障害者の不自由さは、英語しかできない私にも容易に想像できる。
日常的にこうした環境にいると、障害者との垣根を実務の面だけでなく、心理的な面でも感じなくなる。心理的なバリアーが減れば、障害者と健常者がともに働く環境も増える。ニワトリと卵の関係のように、両面からの働きかけが大きな意味を持つのだと実感する。
インドに拠点を持つグローバルカンパニーは、障害者雇用の流れを先取りし、雇用人数を増やしている。とある巨大IT企業では、人事担当者が自ら手話を習い、従業員とのコミュニケーションに役立てているという。
日本では、民間企業における障害者の法定雇用率が、2021年4月までに2.3%に引き上げられる予定だ。インドでは、このような法定雇用率は設定されていないにもかかわらず、なぜグローバルカンパニーは障害者雇用に熱心なのか。v-sheshでマネジャーを務めるシャンティは「企業は社会的評価よりも、ビジネス的価値に重きを置いている」と話す。実際に、女性やLGBTQなど、多様な人材を採用する企業は、経済的インパクトが大きいという調査結果も出ている。さらには、人材としての価値の高さも強調する。シャンティは、離職率の低さや勤勉さなどを理由として挙げた。もちろん、障害者を雇うためには、彼らに合わせた職場環境を整えるための費用もかかる。「しかしそれは、健常者を雇う場合でも同じですから」とシャンティは強調した。

一方で、インドに進出している日本企業の、障害者雇用への関心は依然として低いままだ。現地にある日本政府機関の職員に問い合わせたところ、「東南アジアよりもさらに進出が難しいと言われるインド市場において、進出から5年ほど経ってやっと黒字が出始めた企業がある程度。まだ障害者雇用に乗り出す余裕がないのが現状だ」との答えが返ってきた。
しかし、世界の急激な変化は日本企業の遅々とした歩みを待ってはくれない。2024年にはインドの人口が中国を抜き、世界1位になるとされている。日印関係は良好な状態を保っており、インド市場は日本企業にとって大きな魅力を持っている。障害者権利法はインド国内の日本企業にも適用され、今後のインド進出を考えるうえでも無視できない課題だ。日本国内でもSDGsやESG投資の認知度が高まっているように、インクルーシブな環境をつくることは、企業の価値を向上させることにつながる。
インド国内の日本企業は、リクルートやパソナの現地法人からスタッフを紹介してもらったり、ネット上の採用マッチングサイトを活用したりして、現地での採用に取り組んでいるが、採用は一筋縄ではいかないという。「転職=キャリアアップ」と考えるインド人を自社に長くとどめておくことは困難を極めるが、障害者雇用を検討することで、長期的な雇用につなげられる可能性がある。在インド日本大使館によると、インドにおける日系企業数は1400社近くにものぼる。日立製作所や日産といった大手製造業だけではなく、近年ではITスタートアップのインド進出もみられる。
国内市場が縮小している日本企業にとって、中国につぐ人口規模を誇るインドがビジネス上、大きな魅力を持つことは疑う余地がない。今後の日系企業のインド進出において、ビジネスの価値を最大化させるためにも、障害者雇用によるインクルージョンの実現と、人材の獲得は重要なテーマになると思う。