DIALOG 日本の未来を語ろう :朝日新聞デジタル
2019/03/29

時代を切り開いてきた東京の女性たちに学び
自分らしく今を生きよう
WOMAN & TOKYO 国際女性デーシンポジウム

Written by ジュレット・カミラン、佐藤里帆 with 朝日新聞DIALOG編集部
Photo by 関谷尚子(POTETO)

東京都と朝日新聞社は昨年、東京ブランド推進プロジェクトの一環として「WOMAN&TOKYO」を立ち上げ、様々な企画で東京の女性たちを応援してきました。その集大成として、国際女性デーの3月8日に、「国際女性デーシンポジウム~社会の空気を変えていく  自分らしく生きる女性たちへ~」を東京・千駄ケ谷の津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスで開催しました。このシンポジウムでは、時代を切り開いてきた東京の女性たちの歩みを、「働く」「装う」「恋をする」という三つの切り口で振り返り、今を生きる女性たちにエールを送りました。会場の津田塾大学広瀬記念ホールには、若い女性を中心に約200人の聴衆が集まり、パネリストの話に熱心に耳を傾けました。当日の模様をお伝えします。

第1部「働く」

基調講演 髙橋裕子・津田塾大学学長

第1部のテーマは「働く」です。
まず、津田塾大学の髙橋裕子学長が「Empowering Women to Make a Difference 自分らしく働くとは」と題して基調講演を行いました。髙橋さんは、研究者や大学組織の上位職における女性の数がいまだに少ない現状を指摘し、様々な段階で女性のロールモデルが必要とされることなどについて、次のように語りました。

女性研究者の割合は15.7%

私が初めて働いたのは18歳の夏休みです。今で言えば学外学修のような経験で、ある企業で事務・補助の仕事をしました。男女雇用機会均等法が施行される10年前でした。責任ある仕事をするのは全員男性で、女性は事務・補助に分けられていました。

一方、津田塾大学では外の社会とは違う風景が広がっていて、中高年の女性教員や職員が責任ある立場で働いている姿を目の当たりにしました。大学内における中高年の女性の凜とした、美しい姿に非常に感銘を受け、いつかあの先生たちのような仕事に就きたいと漠然と思うようになりました。

私は47歳のときに学長補佐を務めましたが、大学行政の仕事を通して、当時から大学マネジメントに関わる女性のロールモデルがもっと必要だと感じていました。

今、日本における女性研究者の割合は15.7%です。1位のアイスランドは47.2%ですから、その半分以下です。大学関係の上位職が集う会合に行くと、圧倒的に男性が多い。そういう環境に私たちはいるわけです。

日本の国立大学で女性学長が誕生したのは、奈良女子大学が初めてで、1997年のことです。男女共学が教育基本法で定められたのが1947年ですから、50年もかかっています。現在はと言いますと、現職の女性学長は3人しかいません。2018年における大学の女性学長の割合は、国立大学では3.5%、公立大学は17.6%、私立大学は11.5%で、国公私立を合わせても11.3%しかいません。間もなく2020年を迎えようとしていますが、指導的な地位の3割を女性にしようという政府の方針を実現するのは、非常に厳しい状況にあると感じています。

私がどうして研究者の道に進もうとしたかを考えてみると、津田塾大学のキャンパスが持っていた文化に大きく影響を受けたからだと思います。2017年の津田塾大学専任教員における女性の割合は、教授が42.6%、准教授は44.8%、講師は66.7%、助教は85.7%と、女性教員数の多さが顕著です。私は第11代の学長を務めていますが、津田塾大学の歴代の全塾長・学長は11人中、10人が女性です。この事実が、どんなに強いメッセージを学生や教職員に投げかけていることでしょうか。

守屋多々志が描いた「アメリカ留学」という絵には、津田塾大学の前身である女子英学塾の創始者・津田梅子が描かれています。この絵は、草履を脱いで、足袋でアメリカ行きの船の甲板に立つ津田梅子の、未知の世界に勇気を持って積極的に立ち向かおうとしている姿を表しています。

女性をEmpowerしていくことが今ほど求められている時代はないと思います。その際、女性自身にも勇気が必要です。女性が活躍する機会はどんどん広がっているので、女性たちがもっと力強く、ネットワークを作っていく必要があります。そういうことを考えながら、今日の「INTERNATIONAL WOMEN’S DAY」を迎えています。

パネルディスカッション「東京の女性 これからの働き方」

基調講演に続くパネルディスカッションでは、髙橋さんとともに、株式会社スープストックトーキョー取締役の江澤身和(えざわ・みわ)さんが登壇。どのようにして、今のキャリアを築いたのかを語りました。パネリスト兼ファシリテーターは、若者のライフプランニングをサポートする株式会社manmaの新居日南恵(におり・ひなえ)社長が務めました。

女性のプレゼンスが増えれば、文化が変わる

新居 自ら道を切り開いてきたお二人から、「働く」ということに関するヒントをうかがえればと思います。学生時代や就職活動のころは、「働く」ということをどういうふうにとらえていたのですか?

髙橋 私の場合、津田塾大学で出会った教職員たちが、「働く女性」のイメージを提供してくれました。みなさん熱心に働き、「人を育てること」に非常に情熱を持っていました。そういう人たちに囲まれて、私自身も教職の仕事に就きたいと思い、学部時代、就職活動はまったくしませんでした。同期の人たちが就職していくなかで、私が専任講師になったのは32歳のときでした。同級生より10年遅れて社会人になり、私だけ違う方向に進んでいる感じでした。

江澤 学生時代の私は、どういう大人になりたいとか、どういう仕事がやりたいといったイメージが、恥ずかしいくらいなかったんです。短大にいたときは就職活動をしませんでした。卒業後にフリーターを何年かやって、友達の紹介で入ったアルバイト先がスープストックトーキョーでした。正直、アルバイトを始めた当初は、そのまま長く働くということも、スープストックトーキョーの社員になるということも考えていませんでした。一緒に働く人たちとかかわっていくなかで仕事に魅力を感じ、今も続けています。なぜ、学生時代に自分のペースでいられたのかを改めて考えると、父の存在が大きかったと思います。父は30歳のときに「自分のやりたいことをする」と言って整体師になりました。そういう父を間近に見ていたおかげで、周りの流れに焦ることなく、学生時代を過ごしていたのかなと思います。

新居 私も「女性は早い段階でキャリアを積まないと、だんだんキャリアを積むのは難しくなる」と言われることが多かったです。でも、焦った結果、思い切ったチャレンジをしなくなることのほうがもったいないと思います。お二人とも、とても責任の重いポジションに就いていますが、男性中心の社会で、どうやって障害を乗り越え、今のポジションにたどりついたのですか?

髙橋 津田塾大学は女性が多く、男性社会ではありません。私は、様々な人生の段階で、多様なロールモデルに出会えました。そういう方たちに、本当にサポートしていただきました。女性のプレゼンスがもっといろんなところで増えていくと、文化が変わります。文化が変わると、様々なことがやりやすくなるのではないかと考えています。

江澤 スープストックトーキョーの社員の7割が女性です。アルバイトも入れると9割になります。しかし、経営幹部を見ると、直近まで経営会議にいる女性は私一人でした。そうした環境なので、最初は私自身も何かを発信することを控えてしまう部分が正直ありました。「女性だから」ということを考えすぎていたのかなと思います。なぜ自分が取締役をやらせてもらっているのかを考えると、生意気な存在だったからだと思います。思っていることは言うし、納得できなかったら納得できないと言います。「なんでやるのか」「誰のためにやるのか」ということを自分の中では大事にしていました。そういう部分が、これからの会社を考えていくなかで、必要とされたのかなと思います。そのため、経営会議で周りにおじさんが多くても、引っ込むのではなく、言うべきことは言おうと思うようになりました。

昇進の機会があったら、必ずつかみとろう

新居 働くなかで、「仕事つらいな」とか、「合わないな」と思う瞬間もあったかと思います。そうしたときは、どうやって乗り越えましたか?

江澤 挫折や失敗はたくさんありました。仕事が合わないなと思ったこともあります。失敗して、へこむこともありました。ただ私は、自分が前向きなときに次のステップや新しい道を考えるべきだと思っています。ネガティブな思考のときに次のことを考えても、良いアイデアは浮かびません。もう一つは、失敗をたくさんしたほうが、一緒に働く人が失敗したときに、相手の気持ちが分かる人間になれると思います。失敗したときは、「経験が増えた」とか、「引き出しが増えた」と思うようにしています。

髙橋 私がいちばん困難に直面したのは、子育てをしながら、両親を見送った期間だったと思います。当時、職場からは「休職をしますか」と聞かれましたが、休職したいと思ったことはありません。大学院生活を過ごして、自分の研究分野と出合い、それに対して強いパッションを持っていましたので、両親の病気や子育てが大変だからやめようとは思いませんでした。そのころは、低空飛行をしなければならないライフイベントが起きているのだと思っていました。「低空飛行は低空飛行でいいのだ」と思い、そのときに経験し、得られることをむしろ自分の糧にしようと思っていました。

新居 今日は国際女性デーです。最後に、会場のみなさんのサポートになるようなメッセージをください。

江澤 日本ではまだまだ女性の活躍が遅れています。だからこそ、国が声を大きくして女性の活躍を推進していこうと唱えているのだと思います。今なら、自分たちにチャンスがあるのではないか。私が会社の女性社員にそういうことを話しても、「私なんて」と思ってしまう人が多く、役職に対するこだわりもないように見えます。でも、立場が変わると、見えることや考える視点は変わります。自分にチャンスが回ってきたときに、「私なんて」と思わずに、チャレンジする姿勢が大事だと思います。

髙橋 「昇進の機会があったら、必ずつかみとりましょう。階段を上がってみると、見える風景が違うことが分かります。」本学客員教授で元厚生労働事務次官の村木厚子先生が、学生たちにこのように語りかけています。 これはとても重要です。みなさんが違う風景を見て、変革を担う女性になっていただくことが重要です。女性がいないところで、違和感を持つことはあるでしょう。しかし、その違和感こそがとても重要です。恐れることなく、「変革を担う」女性を目指して、ぜひチャレンジしていただきたい。これは津田塾大学のミッションステートメントなのですが「弱さを、気づきに。強さを、分かち合う力に。不安を、勇気に。逆境を、創造を灯す光に」することが大事だと思います。「ジェンダーギャップ指数2018」で、日本は149カ国中110位。私たちはそういう社会に暮らしています。この状況を女性が変えないで、誰が変えるのですか。男性もそのことに協力しなければいけませんが、女性の力で社会を変えていく。そういう思いを持って、変革を担う女性にみんなでなっていきましょう。

第2部「装う」

トークセッション「自分の色を出していこう 東京の女性150年の装い」

第2部は「装う」をテーマにしたトークセッションです。東京家政大学名誉教授の能澤慧子(のうざわ・けいこ)さん、マルチタレントのはましゃかさん、ファシリテーターを務める朝日新聞の高橋牧子編集委員が登壇しました。

まずは服飾史を研究している能澤さんが、明治から昭和までの、東京の女性たちの洋装化の歴史について、以下のように解説しました。

機能的ではなかった女性の洋装

洋装化は明治初期に始まりましたが、1940年代の後半までは完全な洋装化には至らず、1960年代あたりにようやく定着しました。これだけの期間をかけて導入した洋装とは、どのようなものだったのでしょうか。

150年前、明治政府は欧米との対等な関係樹立のための重要な政策のひとつとして、洋装化に取り組みました。でも、積極的に洋装を取り入れたのは男性だけでした。男性の洋服は当時、和服よりはるかに機能的だったため、軍服などの制服や働く服、また高級官僚や上流社会の人たちの社交用の服装として積極的に取り入れられました。それに対し女性の洋服は、和服よりも機能的だとは言えず、上流社会の一部の人だけのものでした。なぜ機能的でなかったのか。当時の洋服からヨーロッパ社会の意識が読み取れます。

まず重要なのは、足をどう表現するかということです。足は「主体的に行動する性」を意味するため、男性は2本の足を明らかにするズボンをはく。一方で、女性は足を見せない長いスカートを身に着ける。足を隠すことは「追随的に行動する性」を表していました。ですから、ヨーロッパでは女性がズボンをはくことを徹底的に嫌ってきました。今、私たちがパンツをはけるというのは、とてもすごいことなのです。

次に、服をすぐに脱げる前明き(前開き)は女性服としては避けられ、ほとんどの服が後ろ明き(後ろ開き)でした。しかし、女性服も機能性を考慮し、19世紀半ばになると前明きが導入されるようになってきます。すると、男性の打ち合わせが右前(右側が手前)なのに対し、女性は左前が一般的になりました。あえて男女の区別をつけたわけです。さらに、コルセットを着用するなどして、自然な体形を隠すという伝統がありました。

他方、日本の着物は男女ともにワンピース型で、打ち合わせもともに右前。男女差は見られません。女性も腕まくりをしたし、雨が降ってきたら裾を上げて足を出して走りました。肌や自然な体を見せることについて、必要なときはしょうがないという発想でした。 そのように考えると、着物のほうが女性は自由でした。150年前の洋装化は、洋装に込められた欧米社会の意識の導入をも意味していたわけで、それに対する抵抗も存在したのではないでしょうか。

1920年代ごろから少しずつ女性の洋装化が始まり、戦後になると、洋装化が急速に進みます。そして1970年代以降、ファッションに多くの人が関心を寄せるようになりました。

能澤さんの解説に続いて、平成の女性の装いについて3人がディスカッションしました。

今を生きる、東京の女性の装い

はましゃか 見れば分かりますが、私は髪がピンクなんです。

高橋 最近、染めたんですよね?

はましゃか 今年の初めに染めました。内面と外見を一致させたいなと思ってピンクにしたら、すごく生きやすいというか。楽しいです、人生が(笑い)。

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高橋 平成の装いについて考えると、十数年くらい前まではわりとトレンドがあって、みんな同じような格好をしていて、はましゃかさんのように髪を染めたりして認められるということは本当に少なかったと思います。でも、最近はファッションが多様化し、自分らしいファッションが増えてきています。はましゃかさんは、洋服についての考えが変わるタイミングってありましたか?

はましゃか 大学に入って、飲み会で女性がサラダを取り分けたら「女子力高いね」って褒められることに疑問を抱いて、「サラダ取り分け禁止委員会」を作りました(笑い)。10代のころ読んでいたファッション誌には、「おうちデートのときは露出が多い格好をしていてもオッケー。だって俺だけが見ているから。でも外に出るときは露出控えめな格好をして、ほかの人には見せないでほしい」と書いてありました。なるほどと思って、そうしていたんですけど、だんだん「なんでだ」みたいな気持ちが強くなってきて、最近はもう、好きな格好をして電車に乗ってやろうみたいな気持ちのほうが強くなってきています。

高橋 自分らしいファッションには三つの条件があるというのが持論だとか?

はましゃか はい。一つ目は「知識」だと思っていて、そのファッションについて基本的なことを知らないと選べない。二つ目は「思想」ですね。私はこういう思想、気持ちがあってこの服を着ている。なんとなく選ぶんじゃなくて。三つ目が「環境」。自分の所属する環境がそれを許さなかったり、周りの理解が得られなかったりすれば、その格好はできない。この3条件がそろって初めて、自分らしい格好ができると思っています。

能澤 はましゃかさんのお話をうかがって、着ることもちょっとした戦い、挑戦だなと感じました(笑い)。

はましゃか そうですよね! 戦いですよね。

能澤 就職活動の際、若い方々が、リクルートスーツという黒い、同じ服装をしています。あの服装で行かないと、会社は雇ってくれないのでしょうか?

高橋 企業も少しずつ変わってきているとは思います。

はましゃか 最近見たのが、ある化粧品会社の「顔採用、はじめます。」っていうキャッチフレーズ。「顔採用?」って最初びっくりしたんですけど、調べてみたら、就職活動で「メイクをしてもしなくてもいい。どんな服を着てきてもいい。すっぴんが最高と思うならすっぴんで来てほしい」というメッセージでした。

高橋 あと、パンプスの#Ku Too!

はましゃか 靴と苦痛をかけたKu Too。女性が職場でパンプスを履かなければならない。それがすごく苦痛だからなくそう、という運動が広がっています。

高橋 今の20代や30代の人って、ファッションにおける性差ってあまり感じていないんじゃないですか?

はましゃか そうですね……。でも、性差は、私は感じていました(笑い)。なんで女性だけに「男ウケ」とか「愛され服」っていう言葉があって、男性にはないのかなと思っていたので。なくなってはきているように感じますが……。

能澤 そうですね。いずれ男性もスカートをはくんじゃないかな。着物っていうのはスカートですから。

はましゃか どんなジェンダー、性的指向であったとしても、ファッションを自由に選べるようになればいいなと思います。私の夢は、電車でサラリーマンのおじさんがスカートをはいて通勤している姿を、誰も不思議に思わなくなる世の中が来ることです。

第3部「恋をする」

トークセッション「東京の街と、女性の物語~これからのエンタメ~」

第3部は「恋をする」。東京が舞台のラブストーリーを素材に、東京の女性の生き方の変化や街の変遷などについて、脚本家で映画監督の北川悦吏子さん、作家の山内マリコさん、コラムニストの速水健朗さん、ファシリテーターを務めるハフポスト日本版の川口あいさんが語り合いました。

男女雇用機会均等法とトレンディードラマ

川口 東京の街や景色がドラマの舞台装置として機能し始める1980年代から振り返っていきましょう。トレンディードラマの時代ですね。この時代には通信テクノロジーとかインフラが整ってきて、恋愛ドラマの描き方も変化しました。大きな出来事としては、男女雇用機会均等法が施行され、ドラマにも職業をもった女性が当たり前のように出てくるようになりました。「男女7人夏物語」(1986年、TBS系)とか、「抱きしめたい!」(1988年、フジテレビ系)などですが、舞台として東京の東側もフィーチャーされてきました。

速水 80年代で、いちばん大きいのはバブルです。80年代半ば以降はものすごく東京に人口が集中した時代ですが、このころ独身者にスポットが当たるんです。「男女7人夏物語」の脚本を担当した鎌田敏夫さんは、いわゆるヤッピー、若くて独身で専門職に就いている人を主人公に据えました。それまでのドラマでは大家族や子供が主人公でした。場所でいうと、「男女7人夏物語」は隅田川沿い、「抱きしめたい!」もウォーターフロントが舞台でした。

川口 その時代って徐々に通信も進化していて、とにかく電話するシーンが多く描かれていました。

速水 石田純一が出てくるようなトレンディードラマだと、車載電話ですよね。あと、今なら平野ノラがよっこらしょってやっているようなショルダーホンも、このころのドラマのなかでは、よくダブル浅野(浅野温子、浅野ゆう子)あたりが持っていました(笑い)。

川口 90年代に入ると、月9(フジテレビ月曜夜9時枠の連続ドラマ)ブームが始まります。北川先生が脚本を書いた「素顔のままで」(1992年、フジテレビ系)は、女性の同居もの、友情もので、当時としてはすごく新しかった。

北川 バブルの終焉ということもあったと思うんですけど、ただ、男女が素敵に暮らして恋をする、というドラマが立ち行かなくなりました。純愛路線、とかフジが打ち出したのもその頃。もう少し、深いものを作ろう、という感じになっていきました。

川口 バブル崩壊以降、就職氷河期が始まり、95年になると地下鉄サリン事件がありました。それにつれエンタメ作品もけっこう骨太というか、社会派な要素が入ってくる。北川先生の「愛していると言ってくれ」(1995年、TBS系)も、障害者と向き合って恋愛をきっちり描くというのが新しかった。95年に失業率が3%を超え、「ロングバケーション」(1996年、フジテレビ系)では、ヒロインの南が職を探していました。「ロングバケーション」は月9史上最高作品ともいわれます。

山内 観てましたね~。「ロンバケ」はめちゃくちゃかっこよかった。私はそのころ田舎の高校生だったので、テレビのなかのことは基本的に全部ファンタジーみたいな、距離を感じています。なので、あまりリアルなものとしては見てないんですけれど、月 9 の恋愛ものからは、恋に憧れる気持ちや、素敵な恋をしなくちゃーみたいなイデオロギーをびしびし受け取ってました。

川口 北川先生の「ビューティフルライフ」(2000年、TBS系)が放映されたのは、ちょうどバリアフリー法が施行された年です。車いすに乗った常盤貴子さんが主人公でした。

速水 2000年ごろに東京の都市がどう変わったか。都市ってそもそもいろいろなところから人が集まる、多様性がある場所です。では多様性を考えたときに都市をどうやって設計するのか。一つはバリアフリーという概念。バリアフリー法で車いすの利用を前提とした設計になりました。もう一つ、このころから「お一人様」という言葉が出てきた。それまでは1人で飲食店に入れるような設計になっていなかった。でも、2000年くらいにスターバックスが普及して……。

北川 スターバックスって1人客ばかりの図書館みたいな階、ありますよね? 逆におしゃべりできない。

速水 そう。あれは女性が1人で来ることを前提とした設計なんです。

北川 私、「ビューティフルライフ」(2000年、TBS系)を書くときに1日だけ車いすに乗って過ごしたんです。そしたらもうすごく切なくて。ああ、この世は健常者用にできているなと感じ入りました。

川口 逆にいうと、あのドラマがきっかけで、みなさんの意識や街の様子が変わったところもあったと思うんですよね。

経済的自由って、すごく大事

川口 東京の女性の平均初婚年齢が30歳を超えました。結婚観もアップデートされているはずなんですけれども……。

山内 結婚に対する縛りはゆるくなっているのかもしれないけれど、構造自体は変わっていないと思います。奥さんは旦那さんを支えて、みたいなことを要求されがち。自由にやっちゃうと、「悪い女」ってバッシングされちゃう。その構造は変わっていない。

川口 2000年代以降、女性のクリエーターが増えてきました。周りの女性作家を見て、なにか感じることはありましたか?

山内 小説家って、与謝野晶子の時代から、女性が長く続けられる数少ない職業としてあったのかなと思うし、私も女性作家であることの逆風はとくに感じてないです。ただ、私が受賞した「女による女のためのR-18文学賞」は、女性作家を輩出することに特化した賞なんですね。この賞が2002年に新設されたこと自体、男女が一緒の秤にのせられる従来の新人賞では、女性らしい才能は見過ごされてしまうことが多かったっていう証左だと思います。

速水 90年代の独身女性を主人公にしたドラマに影響された女性漫画家たちが、2000年あたりに女性の独身者を主人公にする作品を作り始めるという流れがありました。

北川 私が世に出たころって、等身大の女の子の話が人気だったので、それをリアルに書ける、ということで、若い女性がたくさんデビューして行きました。テレビの視聴者に、いわゆるF2と言われる若い女性が多かったんです。今は、テレビドラマもガラッと様子が変わって、脚本も若い人を抜擢してどんどん書かかせよう、というムードではなくなりました。人材が育ってない気がします。経済状況も大きいと思います。業界に余裕があったんですよ。

山内 バブルを経て女性像がどう変わったのかと考えたときに、バブル以前の女性ってすごく社会的地位が低いというか、男女関係が上下関係として描かれていたんですね。バブルのときって、そうじゃなくなった瞬間ですよね。都築響一さんの『バブルの肖像』という本に「ジュリアナ東京」の項目があって、「日本の長い歴史の中で初めて女たちが男をなめることを覚えた瞬間だった」書いてあったんです。そういう風景を見て育った私たちが、男と女は対等であるのが当然だよねっていうところに来られた最初の世代なのかもしれない。

川口 なるほど。今の私たちの世代は、対等が当たり前で育ってきていますよね。

山内 「逃げるは恥だが役に立つ」(2016 年、TBS 系)でも対等を求めてますよね。家事は昔だったら愛情という名のもとに無償とされていたけど、対価、つまり報酬が発生するものなんだという主張を通して、すごく対等な関係を追及してました。

北川 これからは、何歳になっても生きていけるスキルを身につけることが大事です。なぜ男女が対等じゃなくなるかっていうと、結局、旦那さんに養ってもらうから。つまりお金じゃないですか。経済的自由ってすごく大事です。自分で自分の世話をできるくらいにはしておくといいと思います。

山内 たしかに、三十数年生きてみて出た結論は、経済的にグリップを握っておくのが最善の策だということ。若い女の子たちがそこに行き着く前に、「結婚したい」「専業主婦に憧れる」 みたいなことを言っているのを聞くと、「それけっこう危険だよ!」ってヒヤヒヤします。気持ちはわかるんだけど……。そういった女性の生き方の模索や葛藤、警鐘も、小説にしていきたいなと思っています。

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