DIALOG 日本の未来を語ろう :朝日新聞デジタル
2019/06/24

連続セッション「平成世代が考える『平成30年』の先の未来」
総集編「平成の通信簿と令和の宿題」

Written by 乙部修平 with 朝日新聞DIALOG編集部
Photo by 石黒シエル(POTETO)

「平成」の時代は今年4月に幕を閉じました。朝日新聞DIALOGでは、平成を創った大人たちをゲストに迎え、新しい時代を担う若者たちが様々なテーマで平成を総括する連続セッション「平成世代が考える『平成30年』の先の未来」を開催してきました。その総集編が、「平成の通信簿と令和の宿題」をテーマに、4月26日に都内で開かれました。

セッションは2部構成。第1部では、政治学者の御厨貴さんと社会経済学者の松原隆一郎さんが「経済」「国際」「災害」「スポーツ」「政治」の五つの側面から平成を振り返りました。続く第2部では、約20人の参加者が「令和の宿題」をめぐって議論しました。その模様をお伝えします。

第1部「平成の通信簿」

御厨さんと松原さんは「週刊朝日」で長年、国会が終わるたびに各政党の動きを総括し、評点をつける「国会通信簿」という名物企画を続けてきました。平成という時代のターニングポイントはどこだったのか、意見を交わします。(一部敬称略)

【経済】「貯蓄する企業」によって資本主義が崩壊

松原隆一郎さん

松原: 平成しか知らない人に、平成という時代がどのようなものだったかをお伝えするのは難しいですね。まず、昭和の末期に「バブル」というものがあった、ということから話したほうがわかりやすいと思います。1986年から5年間くらい、地価や株価といったストックが急上昇しました。その後、91年ごろをピークとして破裂するまでの時期を「バブル期」と言います。当時は、バブルが破裂したといっても10年あれば整理がつくだろうと思っていたのに、ダラダラとここまで来てしまった、というのが平成の経済だと思います。

バブルでは資産価格が急激に上がった。しかし、賃金や物価はあまり上がらなかったんですね。不思議な現象です。90年ごろには内外価格差という問題がよく取り上げられました。バブル期には経済学者が「日本の物価を下げなくてはいけない」「フローにかかわる一連の政策をいじらなければいけない」と主張しましたが、最近は物価も賃金も下がり続けています。

もう一つ付け加えておくと、バブルのとき使われていたお金の相当部分が企業の交際費だったという説があります。これは統計学者が実際にデータを出しているのですが、あの頃の人々は会社のお金を使って自分の懐を痛めずに遊び歩いていた。だから案外、普段の生活はちゃんとしていた。

ところが、96、97年ごろから企業が貯蓄主体になった。家計(民間の貯蓄)から借金をして投資をすべき立場の企業が、貯蓄に力を入れるという異様なシステムになった。これは資本主義の原則の崩壊ですよ。その結果、経済はどんどん縮小していった。
平成の経済を総括するならば、やはりバブルとグローバリズムがキーワードになると思います。

【国際】安全保障問題は湾岸戦争から始まった

御厨 貴さん

御厨: 国際情勢に関して言うと、平成が始まった89年に「ベルリンの壁」(*1)が崩壊し、東西冷戦が終結に向かった。これからは戦争のない時代が来ると、多くの人が信じました。91年には旧ソ連も崩壊しましたが、にもかかわらずアメリカが覇権を握りきれない状況が今も続いています。日本はそうした国際情勢に関して感度が鈍かった。というのも、先ほど松原さんがおっしゃったように、国内のバブル崩壊に目も心も奪われていたからです。

とはいえ、バブル崩壊とほぼ同時期に起こった湾岸戦争(*2)が日本に及ぼした影響は大きかった。当時、私はアメリカで暮らしていたのですが、よく街角でおばちゃんに「なぜ日本は軍隊を出さないんだ」と聞かれました。その後は、PKO (*3)が大きな政治の課題となります。90年代の日本にとって、国際関係の課題は、経済的なものではなく、安全保障の問題だったと言っていいでしょう。

松原: 振り返ってみると、冷戦期には、実態としては、巨大戦争は起きなかったんですよね。もちろん局地的に悲惨な戦場はありましたが、日本はそこにタッチせずに済んだ。

御厨: しかし、冷戦後になって、自衛隊をイラクまで出せと言われた。そこが大きく変わったところです。

松原: 日本も何らかの形で世界の戦争にタッチせざるを得なくなったわけですね。

御厨: しかも、カネを出すだけではダメになった。この違いは決定的です。

*1 ベルリンの壁:旧東ドイツ内で、英米仏3国が管理する西ベルリン地区を囲い込むために、東ドイツが1961年から建設した壁。旧ソ連と米国をそれぞれ中心とする「東側」と「西側」が対立する「東西冷戦」の象徴とされた。89年11月から取り壊された。
*2 湾岸戦争:90年8月にイラク軍がクウェートに侵攻、占領したため、米国を中心とする多国籍軍が91年1月からイラクへの空爆を開始した。2月にイラク軍が敗走し、クウェートは解放された。日本は多国籍軍への支援として130億ドルを拠出したが、自衛隊を派遣せず、国際的に批判が出た。
*3 PKO:国連平和維持活動の略称。湾岸戦争以降、国際紛争解決への人的貢献を求められた日本は、激しい国会論議を経て、92年にPKO協力法を制定。同年のカンボジアを皮切りに、自衛隊を派遣している。

【災害】天皇が祈ることで国民が一つになった

松原: 国内の話をすると、95年の阪神・淡路大震災では、私の神戸の実家も被災したのでリアルに覚えています。震災直後、テレビの前で、亡くなった方々の名前が一人ひとり表示されるのをずっと見ていました。そのさなかに、(インターネットが本格化する前の)パソコン通信で、住所や名前をアップすると、近くの人が安否を確認してくれるという掲示板を見つけました。そこで、実際に実家の住所を載せてみたら、確認しに行ってくれた人から本当に返事がきたんです。それまでは、パソコン通信の掲示板は基本的に悪いことにしか使われていないという印象を持っていたのですが(苦笑)、ひょっとしたら良いことにも使えるんじゃないかと気づかされました。当時は、知らない人と1対1で情報交換するということは、まずありませんでした。情報は全て、マスメディアを通してのものでしたから。そうしたテクノロジーの進化の影響は大きかったと思います。

御厨: 阪神・淡路大震災の時はみんな本当に驚きましたが、こうした大規模災害が恒常的に起きるという発想は、当時はまだありませんでした。ところが、2011年に東日本大震災が起こって、日本は本当に地震列島なのだと自覚させられました。さらに熊本地震や様々な自然災害が続き、昭和の時代にはなかった状況が生まれました。

もちろん、昭和の時代にも自然災害がなかったわけではないけれど、当時は、これは自然科学の力で必ず克服できるという考えがあった。政府もそういう言い方をした。崩壊したものは人間の力によって必ず復興できる、いや、それ以上に発展できる。だから自然科学の力を信じなさい、と。これは全くもって信仰ですよ。しかし平成になって、度重なる災害に見舞われ、その考えは断ち切られた。そして、震災というものはどこでも起こり得るということにみんなが気づき始め、どこに住んだらいいかという問題に始まって、いろいろな課題が提起されるようになりました。

こうした自然災害の多発は、「天皇のおつとめ論」にもつながってきます。大規模な自然災害が起きたとき、必ず現地に駆けつけたのが平成の天皇・皇后両陛下でしたから。しかも被災者と同じ目線、もしくはもっと下がった目線で語り、祈る。この天皇の祈り方というものは、平成で大きく変わりました。陛下の祈りはある種の統合効果を持っている。陛下が「国民の皆さん」という言葉を使っても違和感がないのは、このためです。 平成の時代のもう一つ面白いところは、天皇が能動的に時代を終わらせるということです。平成がこんなにも明るく終われるのは、逝去による代替わりではなく、退位を選ばれたからです。

松原: 平成生まれの方に向けて補足すると、昭和末期、昭和天皇の体調があまりよろしくない時は自粛ムードが広まり、社会全体が暗く重苦しい雰囲気に沈んでいました。 歌手の井上陽水さんが「みなさんお元気ですか?」と呼びかける自動車のコマーシャルが不謹慎ではないかと思われ、自粛されたほどでした 。平成はそんなことにならず、明るく終えることができるのは大きいですね。

また平成のもう一つの特徴といえば、人がつながっていくという感覚ではないでしょうか。阪神・淡路大震災のときに異様だったのが、被災地から少し離れると、例えば大阪などでは、全く変わらない日常が続いていたということです。神戸の人間はあの時、被災地の外の人間は自分たちの窮状を絶対に分かってくれないという感情を強く抱いたと思います。ところが、見ず知らずの若者たちが外から続々とボランティアで集まってきて助けてくれる。これは何なんだろうとも思ったはずです。 当時はまだボランティアという言葉すら身近じゃなかったですからね。

この、つながっているという感覚を与えてくれたのが、御厨さんがおっしゃる通り、天皇でした。従来は立って話していた天皇が、床にひざをついて、被災者と目の高さを同じにして語りかけた。それで一気に、人がつながるというイメージができたというところはあると思います。

御厨: またその様子をテレビが非常に大きく報道したんですよ。当時は今よりもテレビの影響力が強かったですからね。

【スポーツ】野茂英雄とイチローがスポーツ界の常識を変えた

松原: スポーツに話を移すと、プロ野球の近鉄球団にいた野茂英雄投手が1995年に日本を飛び出して、大リーグに移籍しました。日本の球界は企業中心のスタイルで、野茂は専属トレーナーをつけて自分で自分の体調管理をすることすら許されなかったからです。そしてその後、イチローが出てきた。彼がスポーツ界に与えた影響は大きかったと思います。というのも、それまでの日本のスポーツ界は全て根性論でした。しかし彼は、トレーニング方法を科学的に全種類試すわけですよ。年をとったら年をとったで、その時の自分に合っていそうなトレーニングを全て試してみる。小さな体の日本人がどれだけ戦えるかということを科学的に追究したんですね。その影響は、柔道や他のスポーツの分野にも広がり、世界で活躍できる選手がたくさん登場するようになりました。 こうしたことが、メディア環境の変化と同時に起こっている。日本の衛星放送ではスポーツ放映の比重があまり大きくならなかった。でも、先日、インターネットテレビ局のAbemaTVが、K-1とRISEというライバル格闘技イベントのビッグマッチを同じ画面上で同時生中継しました。それに象徴されるように、これからはネットでのスポーツ放映が拡大していくと思います。

【政治】小選挙区制と政権交代 混迷の末に現れた強権行使の政治

御厨: 政治の世界もテクノロジーの発展によって変化しました。メディアが多様化し、どこで自分の発言が取り上げられるか分からなくなった。通信手段も発達し、政治家はSNSなどで自分の悪評を立てられないようにするためには、常に他人からの連絡に気を使わなくてはいけなくなった。そのことで政治家は、どんどんと小さいこと、個人的な付き合いに気を配らなくてはいけなくなってしまいました。

また、平成の政治にとって、やはり小沢一郎さん(*4)の影響は大きかったと思います。小沢さんが強引に意志を貫いた結果、93年に細川護熙(もりひろ)政権が誕生し、自民党政権は終わりました。さらに、新生党が中心になった羽田(つとむ)政権、社会党委員長を首班として自民党も加わった村山富市政権が続きました。平成前半に何が起きたかというと、それまで絶対に与党になれなかった野党が与党を経験した。このことがかえって政治の質を下げました。つまり、野党は野党らしくなくなり、与党は与党らしくなくなった。双方に乗り入れをすることで、政権とはこんなものかという感覚を両者とも得てしまった。そして、2009年の民主党による政権交代を経て第2次安倍晋三政権になると、今さら旧民主党系に戻って政治がよくなるとは誰も思わなくなり、安倍政権がずっと続いています。

平成中盤は、なんといっても小泉純一郎さんです。05年に参議院で郵政民営化法案を否決されると衆議院解散に踏み切りました。あの時、その解散をめぐって大論争になったんですよね。参議院で否決されて衆議院を解散したわけですから。憲法違反ではないが、宮沢喜一さん(*5)は、「権力はやろうと思ったら何でもできてしまう。解散という伝家の宝刀は抜かないで効果を発揮するものなのに、小泉さんはそのおきてを破った」と的確に指摘しました。安倍さんはその頃、党幹事長代理や内閣官房長官として、すぐそばで小泉さんの姿を見ていました。第1次内閣では焦りすぎて失敗しましたが、第2次内閣では、政権は何でもできるという小泉さんの「法則」にのっとって力をつけていった。

それともう一つ、小泉さんが証明したことは、選挙に勝てばみんな黙るということです。確かにそうなんですよ。小泉さんの郵政民営化法案は参議院で否決されたけれど、選挙後は参議院側も郵政民営化に賛成しちゃいましたから。その時のことが安倍さんの頭の中にはある。第2次内閣以降の安倍さんは、国政選挙に必ず勝ってきた。そして勝った瞬間に、これまであった様々な問題は国民に支持されたことにしてきた。それによって、小選挙区制の下では二大政党制になり、政権交代が起きて政治が活性化すると言われてきたことが、みんなウソだったとわかった。政治は劣化しちゃったんです。

わが日本国憲法は条文上、内閣総理大臣に他の国と比べてもきわめて強い権力を与えています。従来は派閥の最大公約数の上に乗っかっているのが総理だったから、すべての権力は使わないことで、なんとか自民党を治めてきた。ところが小選挙区制になって、その基盤が崩れた。そうなると、総理はむき出しの権力を使うことになる 。

松原: 平成の政治は「競争」というものを取り入れたけれど、それがほとんど失敗したのだと思います。二大政党制は「非競争」から「競争」へということを意識していましたが、実際にやってみると、ただのパフォーマンスになってしまった。さらに安倍さんの力が強くなりすぎたことで、自民党内でも派閥の力が弱まり、言いたいことが言えず、議論が不活性化してきている。昭和の自民党のほうがよっぽど、右から左までいろいろな派閥があって、多様でした。また昔の派閥には若手の議員を教育する意義もありましたが、今は総裁選での集票組織になってしまっている。ひとことで言えば、派閥の劣化が極まったということですよね。

御厨: おっしゃる通りだと思います。では、なぜ今の政権が続いているかというと、後継者を育てていないからです。これは今の政権の大きな特徴です。戦後最長の7年8カ月にわたって続いた佐藤栄作(*6)政権では、「三角大福中」(*7)と5人も次期総理候補がいて、実際にみんな総理になった。5年間続いた中曽根康弘政権では「安竹宮」(*8)と3人いて、そのうち2人は総理になった。小泉さんだって、急ごしらえで「麻垣康三」(*9)を作りました。この4人で本来なら10年ほどはもつはずでしたが、いつの間にか使い捨て状態になり、安倍→福田→麻生と1年ずつで交代してしまいました。そして、民主党政権の後に、安倍さんがカムバックしてきた。第2次安倍政権で、麻生さんは副総理、谷垣さんは党幹事長になった。彼らの後継者がいないんですよね。これは非常に象徴的です。

松原: 自民党内では、そのことに対する危機感はないのですか?

御厨: 不思議なことにこれがない。なぜかと言うと、みんな自分のポストを失いたくない。昔は、一度ポストを失っても派閥が面倒をみてくれたけど、今はそんなことないですからね。そうなると総裁選では勝ち馬に乗ろうとする。

*4 小沢一郎:元自民党幹事長。1993年に自民党を離党して羽田孜らと新生党を結成。非自民勢力を結集して細川護熙内閣を誕生させた。その後、新進党、自由党を結成。自由党は2003年に民主党と合併。06〜09年、民主党代表を務めた。
*5 宮沢喜一:元首相。1991年、首相に就任。PKO協力法を成立させ、自衛隊の海外派遣に道を開いた。93年6月に内閣不信任案を可決され、衆議院を解散。その後の総選挙で自民党は過半数割れし、55年の結党後初めて下野することになった。
*6 佐藤栄作:自民党の政治家。64~72年の7年8カ月にわたって政権を担当した。 *7 「三角大福中」:三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫・中曽根康弘の5人。いずれも自民党の政治家で、佐藤栄作が72年に退任すると、田中→三木→福田→大平の順に80年まで政権を担当。中曽根も82~87年の約5年間、首相を務めた。
*8 「安竹宮」:安倍晋太郎・竹下登・宮沢喜一の3人。いずれも自民党の政治家。安倍は、安倍晋三首相の父で、外務大臣、党幹事長などを歴任した。竹下は87〜89年、宮沢は91〜93年に政権を担当した。
*9 「麻垣康三」:麻生太郎・谷垣禎一・福田康夫・安倍晋三の4人。小泉内閣後の2006年から安倍(第1次)→福田→麻生の順に政権を担当。谷垣は09年に下野した自民党で総裁を務めた。

【総括】自由な歴史感覚がこれから生まれる

松原: 暗いことばかり言いましたが、みんなが働き詰めだった昭和から、次第に、右肩上がりじゃなくても緩やかに楽しく生きていければいいんじゃないかと価値観が変わったのはいいことだと思います。決して享楽的という意味ではなく、いい感じに肩の力が抜けてきたのは進歩なのではないか。バブルの頃に比べ、市場価格がついていなくても質の高いものは評価されるようになってきている。この方向性で立て直しを図ったほうがいい。

御厨: 退位によって平成を30年余で強制遮断したことで、歴史意識が変わってくると思います。今後、若い人たちが歴史を考えるときは、我々がとらわれていた「戦後」という意識はなくなる。天皇陛下(現・上皇さま)がおっしゃっていたように、平成の30年間は平和でした。そこから歴史観がスタートする。だから平成につながる令和では、日本が戦争で敗れたからということとは全く違ったところで、平和の価値について考えることになる。我々の世代は、よくもあしくも「戦後」にとらわれすぎたきらいがあります。自由な歴史感覚がこれから生まれると思います。

第2部「令和の宿題」

続く第2部では、「令和の宿題」をテーマにしたグループディスカッションが行われました。約20人の参加者が四つのグループに分かれ、平成生まれの人と昭和生まれの人が世代を超えて、45分にわたる白熱した議論を交わしました。各グループによる議論内容の発表では、「人と気軽につながれる時代になったからこそ、出会いやコミュニケーションの質が問われるようになってきていると思う。緩くつながるという感覚を肯定的にとらえ、上と下の世代が寄り添い、認め合う謙虚さが必要ではないか」といった意見や、「少子化・高齢化のなかで、若者が活躍できる場を整えることは大切だ。しかし若者に任せきりにするのではなく、高齢者は長年の経験を生かし、まだまだ若い世代をサポートしてほしい」という声が上がりました。

第2部では、参加者が世代を超えて「令和の宿題」について語り合った

政治と市民をつなぐ新たな中間団体を作るべきではないかという参加者の意見を受け、松原さんは「見直すべき問題だと思います。例えば保育園を増やし、質を上げようとする団体があれば、若いお母さんの多くが投票するんじゃないか。そんな社会問題を身近に考えさせてくれる新たなつながりを作ることが必要だと思う」と述べました。また御厨さんは、「選挙が“娯楽”だった昔と違い、今は面白いことがたくさんあるので、選挙の投票率が下がるのは当然だ。政治を選挙のやり方から変えなくてはいけない。なぜ政治が遠いものになっているかといえば、政治に全てをやらせようとしているからだと思う。政治に任せる領域を限定して、残りは市民が自分たちでやる、という議論があってもいいのではないか」とコメントしました。

閉会後、参加者にも感想を聞きました。早稲田大学で社会学を専攻する平成9(1997)年生まれの山上周平さんは、「これからは、上の世代の人たちと連携して社会をつくるんだという感覚を持つことができた」と話しました。

これまで6回にわたって開催してきた連続セッション「平成世代が考える『平成30年』の先の未来」では、ゆとり教育の功罪から、人口減少と外国人受け入れ問題、政治改革の本質、新しい働き方と家族のかたち、セクシュアリティーの軌跡まで幅広いテーマを扱ってきました。

いよいよ令和の時代が幕を開けました。風に運ばれてくるほのかな梅の香のように、新しいことの始まりを予感させる令和。全ての世代を包摂できる社会のつくり方が、いま、問われているのかもしれません。

【プロフィル】
御厨 貴(みくりや・たかし)
東京大学名誉教授。1951年、東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学先端科学技術研究センター教授などを歴任。サントリーホールディングス社外取締役、ひょうご震災記念21世紀研究機構副理事長兼研究戦略センター長も務めている。近著に『平成風雲録 政治学者の時間旅行』(文藝春秋)など。

松原隆一郎(まつばら・りゅういちろう)
放送大学教授。東京大学名誉教授。1956年、神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒。同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院総合文化研究科教授を経て、2018年4月から現職。武道家として、また無電柱化の提唱者としても知られる。近著に『頼介伝 無名の起業家が生きた もうひとつの日本近現代史』(苦楽堂)など。

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