

「2030年の未来を考える」をコンセプトとしたプロジェクト、朝日新聞DIALOGでは、社会課題の解決を目指す若きソーシャルイノベーターの活動を継続的に紹介しています。今回注目したのは、ニューヨークと大阪を拠点とする文筆家の塩谷舞さん(31)。「バズライター」と呼ばれるほど、面白いことを仕掛けてサイトのPV数を上げたりSNS上でバズらせたりといった世間の反応に左右された時期を経て、現在は、編集長を務めるオピニオンメディアmilieu(ミリュー)やnoteで、自身が感じたことなどについて自分軸での発信を続けています。いったい、塩谷さんに何が起きたのでしょうか?
——普段のお仕事について教えてください。
9割9分、インターネットで文章を書いて、それを読んだりシェアしていただいたりしてお金を得るという仕事をしています。ライターというと「どの雑誌に書いてるの?」とか「どの媒体で発信しているの?」と聞かれることも多いのですが、媒体自体も自分で作ったmilieuというウェブメディアか、noteを使っています。ひきこもり系の物書きです。
■塩谷さんのnote 最近のタイトル |
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・移民と故郷と、心の中のリトル・ジャパン |
・王様の耳はロバの耳だと、叫ぶ場所はもうどこにもない。 |
・「化粧したほうの私」だけが存在を許される世界で |
・勝者の論理と、自堕落沼からの助言 |
・SNSを追いすぎない。異常事態の中でも病まずに暮らすには? |
顔を食べ尽くされたアンパンマン
——現在は自身の美意識や考えなどを発信されていますが、過去には会社員や個人のライターとしてモノや会社のPR記事を書くお仕事をされていました。「バズライター」と呼ばれた時代から、現在のスタイルに変わった理由は何なのでしょうか。
やっぱり常に数字との戦いになってきて、苦しくなっちゃったんですよね。数字が伸びれば単価も上がる。クライアントからの期待値や単価がどんどん上がる中で、「今回も期待に応えて一発バズらせなければ」みたいな資本主義の原理に組み込まれてしまって、自分で自分がコントロール出来なくなっていきました。記事を書くときに、嘘は書かないにしても、意図的な演出を加えてしまうことへの罪悪感もありました。「もっと驚かせないと、もっと刺激的じゃないと人は読んでくれない」と思って、少し脚色したり話を盛ってしまったり……
それがストレスにもなり、同時に持病が発覚して1回入院したんですよね。そのころ本当に寝不足で毎日3、4時間寝て、記事を書いて、いろんな人のコンサルタントをしていました。世の中にこういうタイプの仕事をする人が少なかったので重宝してもらっていて、てとも嬉しかったのですが、一部では「人」ではなくコンテンツや情報商材として消費されているような状態で。例えば私がアンパンマンだとすると、周囲にいる人みんなに顔をちぎって分けてあげていて、もう顔が残っていないのに「顔を食べなよ!」と言い続けているような感じでした。
その時は腹部の激痛で入院したのですが、結果的に子宮内膜症という病気があることがわかりました。それまで「女性ならでは」という言葉はあまり好きではなかったのですが、よく考えると、体力的には明らかに多くの男性よりも貧弱なんです。だからこそ、数字を追い求める男性中心社会の中で、弱い体を持つ自分が頂点にのぼりつめていくのは無理があると思うようになりました。でもインターネットを見ると、「寝ないでこれだけ頑張ってます」とか「成功するための秘訣はとにかくストイックに行動すること」みたいな言葉にあふれているんですよね。努力された方を否定したいわけではないのですが、ちょっと世の中の声のバランスがそういう成功者に偏りすぎていると感じます。無理をして働いて体を壊す人もいるはずなのに、そんな声は広まりにくい。私の活動の中心でもあったWebメディアの世界は青天井。ページ数などの上限がない世界ではやればやるほどお金が稼げるので、PV数をのばすための競争社会、体力勝負になりがちなんですよね。でもその中で働き方をミニマルにして、肉体的に無理をしないけれどもやりたい仕事や自己実現するにはどうすればいいか考えるようになりました。何かを宣伝するために、自分の心や身体を犠牲にすることは、やめにしたんです。
バズらせて自責…今は、ゆっくり
——以前と比べて、文章の内容は具体的にどのように変化したのでしょうか。
昔は面白い商品に出合えるとか、何か有益な情報を手に入れることができるとか、そういう何かしらの利益を提供できなければ自分の文章に価値はないと思っていました。自己肯定感があまりに低くて、いつも「役に立たなければ意味がない」と焦っていたんです。でも、今は無理やり利益に結びつける書き方はやめています。「価値はないかもしれないけれども、自分はこう思う」とか、「私の信じる世界はこれだ」とか言い続けて、100人に1人くらいがそうかもしれないねって思ってくれれば、それはすごく希望があることだなと。
もう一つ、今まで狙ってバズらせるとか、狙って人に物を売るっていうことをやり続けた結果、すごく消費期限の短いものを世の中に出してしまったという自責の念があります。今は、狙って何かを作るよりも、ゆっくり思想や価値観を育てていきたい。明日から誰でもが真似できるようなノウハウなんかじゃなくて、今すぐ役に立たなくとも、悩みながらもじっくり開拓していく過程を書き残しておきたい。その結果、いわゆる新しい働き方の提案や、世の中の人を解きほぐせるような価値観を生むことができれば、そんなにうれしいことはありません。
——書く内容が変わったことでPV数が下がり、ショックを受けるようなことはありましたか。
やっぱりそれはありました。これまで提供してきたバズるテクニックを書いた記事とかにはみんな興味を持ってくれるのに、私自身の言葉になると、テクニックを必要としていた方はもちろん離れていきました。当たり前のことなんですけど、やっぱり少し悲しかったです。でも、数は減っても、今のほうが好きですって言ってくれる読者が残ってくださった。そして、今度はまた別の、あたらしい読者の方が増えてきて……。私は今の私の文章が好きだし、今の文章を理解してくださる繊細な感覚を持った方たちに会えることにも喜びを感じています。大きな舞台に出て多くの人の目に触れるよりも、一人でもでいいから自分を本当に理解してくれる人に文章を届けたい。そのほうが自分を高められるし、いい文章が書けると思う。自分がどんどん脱皮できて、美しい世界への解像度が上がっていきますよね。

NYにも拠点 自分の姿を誇れた日
——2018年からニューヨークにも生活の拠点を置いていますが、何か変化はありますか。
ビザのことは大変ですが、数十年前と比べると、移住のハードルはぐっと下がっていると思います。私の場合はインターネットが収入のベースなので、どこでも仕事をすることが出来ます。でも見ているものがちょっと新鮮なものだったり、少し珍しいものだったりすると、書いたものも新鮮に受けとめてもらえるなと感じています。常識が違うところに自分を置いてみると、自分の目の解像度が上がってきて、「今まで自分が常識だと思ってたのは、ただの固有の文化なんだ」とかいろいろ気がつきますよね。ショックな発見もうれしい発見も両方あるのですが、それらを通して五感がみずみずしくなりました。
——新生活で得た新たな視点などはありますか。
海外に行ってから、美意識の軸を自分の中に持つことができるようになりました。自分の持って生まれた体や文化を否定せず、それにふさわしいものを探していくようになったんです。この変化ってなんだろうなと思ってたんですけど、「これじゃなきゃダメですよ」って社会から提案されるものから自由になったからなのかな、と思います。
例えば子供のころだったら、リカちゃん人形や、シルバニアファミリーみたいなおもちゃで遊ぶじゃないですか。でもそういうものって基本的にヨーロッパとかアメリカの暮らしが手本になっていて、欧米的なものが憧れの対象になってしまいますよね。日本家屋のシルバニアファミリーはないし、座敷に飾ってある日本人形は少し怖かった。そして思春期になれば、外見のコンプレックスが煽られる。一重まぶただったら、目を二重に見せましょう、とメディアは刺激してきます。私自身も一重まぶたを恥ずかしく感じて、何とかごまかそうとしていました。
でもヨーロッパやアメリカに行く中で、自分の目や肌を肯定的に受け止めることができるようになりました。2年前にデンマークへ遊びに行ったときに家具屋さんにも寄ったんです。北欧って、妖精みたいに色素の薄い方が多い。そういう人たちと北欧のパステルカラーの家具ってすごく合うんですよね。やっぱり彼ら、彼女らの育った文化圏の中で生まれたものだからなのかな。そういうところで自分を見るとがっかりしちゃって「私の部屋には合わないな」って、そうした人たちの群れの中をかき分けて、とぼとぼとホテルに帰りました。でもホテルの鏡でふと自分を見たときに、すごく珍しい生き物を見る感覚になりました。まず目がシンプルで、なんというか、日本酒とか脂の少ないお刺し身とかおひたしみたい。これは別に恥じることじゃなくて、このさっぱりした顔はすごくユニークなんじゃないかと思ったんです。その日、人生で初めて自分をまじまじと観察しました。
——自分の捉え方が変わったのですね。
そうですね。それまでは髪を染めたり、二重に見せたりして、自分の持つ遺伝子をできる限り隠して憧れのものに塗り替える、つまりコンプレックスを隠すために装っていたんです。でも、自分の授かった遺伝子が心地よいと感じるものを探す方向に向かっていけばいいじゃない、と価値観が大きく転換しました。自分自身の瞳の色や肌の色、髪の色、そして胃腸にも馴染むものを探していく。それが結果として、日本文化と言われる工芸品やお茶などを好む今のスタイルにつながっています。自分が今まで劣っていると思っていた体の特徴に誇りを持って、見合うものを積み重ねていくのはとても楽しい。なんで日本にいるときに気づけなかったのかなとは思うんですけど、向こうに行って一番ありがたい変化はそれですね。
競争からドロップアウト でも道はある
——今はどのような働き方に挑戦されていますか。
ミニマルな働き方ということで会社などの組織に属したりせずに、noteや自分の媒体を使って仕事をしています。前まではやっぱり大きな企業に関わっていかないと、社会的な立場が守れないんじゃないかとか、物書きとしての価値が上がらないんじゃないかとか考えていました。でも今は感情や世の中が動いたときに、すぐ舵(かじ)を切れる一人の良さを感じています。大きな権力や勝者の理論に支配されていない場所で、自分が見いだせる世界があると確信しています。
実際に個人で何かを発信する人は、インターネットの世界にたくさんいます。さっきは競争の激しい世界だと言いましたが、同時にインターネットは弱者に寛大な場所でもあるからです。私みたいに大きいメディアに所属していない、会社に所属していない人間が書いた文章が、ひょんなことから何十万人に読んでもらえる。他にも例えば、すごく文章力や表現力のある主婦の方々がInstagramで才能を爆発させている。ある意味、個人事業主のようになっていますよね。既存の社会で成功者とされるような、チームを率いるリーダーになったり、上場企業の役員になったりするといった道ではないけれども、表現力でそれそれの道を切り開くことが可能になっている。そういう個人の表現者として、自分の人生や周りを豊かにするというのも一つ立派なのキャリア。
そういう生き方をする人の中には、実は競争社会からドロップアウトした方も多いんですよ。会社員としては全く駄目でしたとか、私みたいに体がすごく弱くてとか。でもそういう人でも、諦めずに生きていくすべがある。もちろん誰も彼もが表現の世界で注目を集められるわけではありません。でも、競争社会で休みなく働いて勝ち抜くこと以外にも、道はあるってことを伝えたい。同じ会社に勤めてるわけじゃないけど、近しい思想を持った仲間をちょっとずつ増やしていきたいですね。
——2030年の目標を教えてください。
すごく志の高い目標とか、狙って何か作りたいといった目標は全くありません。ただ、良い状態でいる、良い文章を書く、ということだけを目標にしておきたい。10年後にどんな社会になっているかというと、「知らんがな」という感じです。
でも、希望を言えば、もっと私たちの社会が気候風土と密接な関係を取り戻して欲しいと願っています。百貨店に行けば真夏でも秋冬モノが並んでいるし、世界中の大都市には同じようなグローバル企業ばかりが軒を並べています。でも、日本は湿気が多いから秋でも風通しの良いものが着たいし、南半球では季節が逆だから世界のトレンドとは足並みをそろえられない。本来どの土地であっても、その気候風土に適した繊細な文化があったはずなのに、その多くがグローバル化で失われてしまったのは、あまりにも惜しいことです。
カラフルなアフリカ布で作られた衣服は黒い肌に美しく映えるし、カンドゥーラをまとったアラブの方々には迫力を感じる。過去に戻ることが素晴らしい……という訳ではなく、それぞれの気候風土の中での最適解を、過去を一つの手がかりとして再構築していくことができれば、それはとても美しいことだと思います。

自由さと美意識 響いた
DIALOG学生記者の魚住あかりです。取材の準備として塩谷さんについて調べ、学生時代にフリーペーパーを創刊したこと、人気ブログを運営していたこと、小室哲哉さんの曲の作詞をしたことなど、さまざまなエピソードが出てきて驚きました。どんな方なんだろうと楽しみにしながら臨んだ取材でした。
実際にお話しした塩谷さんは、自身の感性を大切にしながら自由に活動している方でした。個人という小さな単位で、新たな社会や働き方のあり方を模索する姿から、本来の意味での「豊かな生活」について考えさせられました。
持続可能な社会などの大きなテーマにもつながる塩谷さんの思想は、私の経験に照らし合わせて考えることのできる身近なものでもありました。特に印象に残ったのは美意識に関するお話。かつてアイプチ、アイテープを使い何とか二重まぶたになろうと試行錯誤していた私にとって、共感できることばかりでした。そんな深さと身近さを併せ持った塩谷さんの考え方が伝わるインタビューとなっていればうれしいです。
塩谷舞(しおたに・まい)
オピニオンメディア「milieu」(http://milieu.ink)編集長・文筆家。大阪とニューヨークの2拠点生活中。1988年、大阪・千里生まれ。京都市立芸術大学卒業。大学時代にアートマガジン「SHAKE ART!」を創刊、展覧会のキュレーションやメディア運営を行う。会社員を経て、2015年に独立。