
「明日へのLesson」は、次代を担う若者と第一線で活躍する大人が対話するシリーズです。今回はグラフィックデザイナーの原研哉さん(62)に、振動と光によって音を感じるデバイスを開発した富士通のOntenna(オンテナ)プロジェクトリーダーの本多達也さん (30)と舞踊家の有馬和歌子さん(21)が話を聞きました。
原さんは、生活雑貨や衣服など幅広く展開する「無印良品」のアートディレクションをはじめ、ライフスタイルを提案する「蔦屋書店」や銀座エリア最大の商業施設「GINZA SIX」のロゴなどのプロデュースを手がけていることで知られます。また、武蔵野美術大学の教授として学生にデザインを教えています。インタビューでは作品を生み出す上で考えていることや仕事観を通して、原さんのデザイン論に迫りました。
無印良品と「エンプティネス」
本多 最初に、無印良品のアートディレクションの話をお聞きしたいです。
原 2002年から本格的に取り組み始めました。初代アートディレクターの田中一光氏から急にバトンを渡されたときは、心の準備ができていませんでしたが、日本の中で生まれたブランドを世界に広めていくことが自分の役割かと思いお引き受けしました。
無印良品って考え続けるブランドなんです。「こんなに性能の良い品を、こんなに安く売っていますよ」とPRするのではなく、“感じのいい暮らし”を探求しています。感じがいいものの指針として、例えば素材の選択や製造工程もその一つですし、簡素なデザインもそうですが、無印良品とは何なのかをむしろ考えることから始めました。
2003年に制作した新聞広告は地平線を撮影したものでした。そこには地球と人間しか写っていません。これは企業メッセージというよりも、「無印良品とは何か」をユーザーの方々にたずねる「問い」のような広告でした。
西洋から生まれたシンプルではなく、最小限であることがむしろ究極の自在性に通じるような境地があります。例えば、一つのテーブルを作るにしても、18歳の若者のためにシンプルなテーブルを作り、65歳の熟年夫婦のためにユニバーサルデザインのテーブルを作るといった発想ではなく、全く同じテーブルだけれどもどんな文脈にも寄り添う自在性をはらんでいるもの。私はそれを 「シンプリシティー」と区別して、「エンプティネス」と呼んでみました。この観点は日本的ではありますが、ヨーロッパや中国の方々にもよくわかってもらえます。
本多 台湾に留学していた時に、友人らから「日本ってクールだよね、デザイン的だよね」と言われたことがあります。現地で無印良品は人気が高く、その影響が大きいのかなと思っています。
原 中国の人たちは赤や金あるいは派手な装飾が好きだと思われがちですが、必ずしもそんなことはありません。例えば宋の時代は、簡潔に極まったものがかっこいいと思われていました。近代化を経て、アジア全体が新しい状況へと移行しつつある段階で「自分たちの美意識とはなにか?」を考えたときに、無印良品に、西洋近代が生み出したシンプリシティーとは違う何かを感じて、共感してくれているように思います。

ガラパゴスと掃除の極意
原 無印良品は、40アイテムくらいからスタートしましたが、今は7500アイテムに上っています。「かかとが直角ではきやすい靴下」「場所を取らない洗濯物干し」「首がチクチクしないセーター」など7500アイテムのそれぞれの品質や性能はそれぞれ素晴らしいのですが、寄りの目で商品を見すぎると、見失うものもあります。寄りの目と引きの目を一緒に持たないと製品ブランドの思想は縮こまってしまいます。そうならないように、商品開発のミーティングでは「地球を見ませんか」と声を掛ける場面もあります。
「ガラパゴス」の質問に戻ると、ガラパゴス諸島は「独創と進化」という意味ではとてもユニークな場所です。海に隔絶された島々で、独自に進化した生物たち。無印良品の製品とガラパゴスの生き物たちに類似性を見いだそうという着想でした。コピーは「自然、当然、無印」。買ってくださいという広告ではなく、地球を一緒に見て考えませんか、という企業メッセージです。こういう広告もあっていいのではないかと思っています。
本多 原さんご自身も現地に行かれるのですね。
原 はい。ガラパゴスに行ったら、動物は掃除をしないことに気づきました。例えば、岩場に行くとガラパゴスウミウという鳥がいます。岩場に巣を作って棲んでいるのですが、その場に行くと糞で真っ白。最初は「うひゃー、糞だらけ……」と感じたのですが、だんだん慣れてくるのですね。その時にふと「どうして人間は掃除するんだろう?」と思ったのです。掃除はとてもヒト的な行為なのですね。そのうちに無印良品って掃除みたいなものかもしれないと思うようになりました。デザインという行為も掃除なんですよ。余計なものを排除しながら必要なものをより分けていくことなので。
掃除には極意があります。人間は、「人工物」例えばプラスチックやコンクリートが増えすぎると自然を恋しがります。一方で、自然が奔放に押し寄せてくるのも都合が悪いわけです。畳の上に草が生えてくると嫌ですよね。庭も、じわじわと自然が攻めてくると草をむしり、木を整えます。しかしやりすぎるのは野暮だから苔(こけ)は上手に残し、落ち葉も掃きすぎない。それを150年くらい続けた結果、「自然」と「人工」のあわい、つまり波打ち際ができてきます。それが「庭」というものです。掃除をし続けた結果としての庭に「おっ」と感じるものがある。
それで、人間のあらゆる掃除を見てみたくなったのです。それが今の広告になりました。最初に訪ねたのはイラン。イランのお正月の前に、村人が一斉に川に絨毯を持ち寄って、歌やラッパの音色に合わせて洗うんです。みんなきれいな民族衣装を着ているのに、水の中に入ってジャブジャブ洗うんですよ。その光景に衝撃を受けました。他には東大寺の大仏のお身拭いや、中国の高層ビルの窓拭き、水族館の巨大水槽の掃除……など、多種多様な掃除を100種以上撮りました。新型コロナウイルスが蔓延(まんえん)する前のことです。今これを見るとごく普通の営みがいとおしく感じられます。当たり前が素敵に見える。コピーは「気持ちいいのはなぜだろう」。

銀座の街と金色の「G」
有馬 例えば、GINZA SIXのロゴのように、新しいにもかかわらず、前からあったかのように銀座の街にすっと溶け込む感覚ってすごいなと思います。こういうものを作り出す上で、最初に考えることは何なんですか。
原 いかにもデザインしていると悟られるのは恥ずかしい。気張りすぎて、いかにも「ここをデザインしました」みたいなことには抵抗がある。GINZA SIXはヨーロッパや日本の様々なブランドがあり、それを全部統合して一つにまとめる巨大な軸にならなくてはいけないわけです。普通だけれど、何でも入る大きな器を作ることが一番重要です。だからこれも空っぽ。「G6」とか 「GSIX」「GINZA 6」「GINZA SIX」など、いろんな表記の仕方が考えられます。その中で「GSIX」で表現するのが潔いと感じました。長く銀座にいると、「GINZA」という文字をもう見たくないというのもあって(笑)。金色の「G」でもうわかります。「GSIX」で、GINZA SIXと呼ぶことを提案し、受け入れられました。
僕が取り組んだ仕事はいたってミニマル、最小限に集約します。蔦屋書店も「蔦屋書店」という漢字4文字。「無印良品」もそうですが、非常に可読性がよく、強い端正な文字ですね。そういうものが理想です。MIKIMOTOもすごくシンプルで、誰の仕事か分からないようなものです。デザイナーが、いかにもデザインしたとは思えませんよね。デザインの仕事というのは、本質を見極めていく仕事です。見極めたら答えをすっと静かに入れる。受け手に「わお!」って言わせなくてもいいのです。
有馬 デザインは本質を見極めて、そぎ落としていく作業なのですね。
原 そぎ落とすというよりは、澄ませる作業ですかね。できるだけ濁りがない状態にすることです。ロゴを作っていてもそう感じることが多い。例えばラグジュアリーブランドの「シャネル」のロゴは一見なんの変哲もないように見えますが、ロゴとフォントを比べるとロゴのほうが磨き抜かれていて澄んでいる。ルイ・ヴィトンやカルティエも同じで、簡潔で強い。簡潔なデザインの方が人の気持ちを受け入れる容量が大きく、古びることなく長く君臨できます。時代に添いすぎると、時代と一緒に瞬く間に消えていってしてしまうんです。求められるものが今の時代に合うものだとしても、時代と距離を置くことが必要なわけです。このあたりの感覚は非常に難しいですね。

日本舞踊とイマジネーション
有馬 原さんがお話されたように「エンプティネス」を大切にすると、情報がシンプルになり、時には作り手の意図とは違う受け取られ方をされる場合もあるかと思いますが、いかがでしょうか。
原 日本舞踊と同じだと思いますよ。一つの所作や一つの舞をどのように見てもらえるかというのは、受け手のイマジネーションに委ねられています。冗舌にたくさんのことをしゃべる舞ではなくて、私のパフォーマンスの中に、あなたが考えている大事なことを込めていただいていいですよということになっていると思いますね。相手のイマジネーションを引き込むような空隙、間をどう作っていくかということがデザインとして重要だと思います。自在性のある器を作っているわけだから、大きい器があればあるほど良くて、誤解も含めて答えはできるだけたくさんあったほうがいいですね。
有馬 周りの友達が就職を選んでいる中で、私は舞踊家として生きていこうと思っています。ただ、親を心配させないで、仕事をやっていけるのかという不安はあります。自分の好きなことを続けていらっしゃる原さんの姿は本当に素敵だなと思っています。
原 大手企業に就職することが幸せかと言われるとそうではない時代になっていると思います。たった一人で社会に立てるかどうかを考えた時に、企業に就職することが必ずしも良いことではない場合もあると思います。コロナに関係なく、働き方や社会に対する価値の作り方が変わり始めていると思います。自分が世の中のどういうところに貢献できるかを考えて仕事を選んだほうがいい。
僕は大学で、デザイン学科の学生にデザインを教えているのですが、「僕らのスキルをあなたたちに教えても、それは必ずしもこれからの世の中から求められるとは限らない。だから自分の仕事は自分で作っていける人になってくださいね」と話しています。これまでのグラフィックデザインや広告の仕事はなくなるかもしれません。しかしデザインが本質を見極め、それを可視化していく仕事であるならば、新しい仕事やサービスを状況に合わせて作っていけばいい。変化の時代に生まれたということをマイナスに思わなくていいのではないでしょうか。自分が得意なところで頑張ればいいんです。
コロナ禍と流動するエネルギー
本多 原さんのデザインは、世界各地に足を運んでいろんな人の話を聞いてその空気感や感じたものが一つの形として現れているなと思います。コロナの影響で旅ができなくなったことでイマジネーションやデザインの方法に何か変化はありましたか。
原 変わっていません。一度訪れた場所は行かなくても頭の中にあります。移動が減っても頭の中は変わりません。また、国内外の仕事に携わっている中で感じることは、グローバルとローカルは対立する概念ではなく一対の概念だということです。グローバルな文脈に立てば立つほどローカルの価値が高まるのだと思います。つまり、日本の外に出れば出るほど日本の価値が分かるのです。コロナがどう収束するかは分かりませんが、収束後は、よりはっきりしていくと思います。世界は止まらないですから、グローバルへの動きも止まらない。結果としてローカルの価値が相対的に高まる時代になると思います。
実は、私は日本の観光の概念を変えたくて準備をしています。例えば、目的地に行くためにホテルに宿泊するのではなくて、そのホテルに滞在することが最終目的であるような、そういう水準のホテルを作っていくことを日本は始めなくてはと思っています。光を観ると書く「観光」はいい言葉ですが、製造業の強い日本ではどこか頼りない産業という響きがあります。だからこれまでとは解像度の次元が違う観光を作らないといけないと思っています。コロナを機に日本は、自分の足元の価値を見つめ直す時間ができたのではないでしょうか。
本多 コロナの影響でろう学校の人たちと直接会えない中で、僕はこれまでのクリエーティブをどう発揮していけばいいのだろうと悲観していた部分があったのですが、世界は停滞しないという未来を見据えたお話をお聞きできてうれしかったです。
原 コロナに関しては、毎日の感染者数が報告されて、とてつもない感染症がはやっているように感じますが、みんながいつまでもマスクをしているとは思えません。例えば毎年交通事故で多くの方が亡くなっていますが、クルマを規制しようという動きにはならない。治療方法が確立され、ワクチンが安心して使われ、コントロールできる病気になればウイルスと一緒に生きていけるでしょう。
有馬 コロナのような大きな危機に直面すると、人は落ち込みがちになりますが、原さんはいかがでしたか。ネガティブな発想が出てくることもありましたか。
原 人生はそんなに順調ではなかったから(笑)コロナウイルスが自分にとって決定的にマイナスなことだとは思わないようにしています。大震災も、不況もやってきます。オリンピックのエンブレム問題も起きました。だけど、どんな状況でも社会が動いて、エネルギーが流動していることを利用しながら前に進むしかないと思うんです。例えば、ヨット。潮流が逆で、逆風が吹いていても、帆の張り方と舵(かじ)の取り方で、ジグザグでも前に進めます。ウイルスだろうが、オリンピック延期だろうが、高度成長だろうが、バブル崩壊だろうが、世の中の動きがあるときは前に進めるエネルギーがあると。ポジティブ・シンキングということではなく、世の中に動いているエネルギーを糧に進めばいいのです。
東京五輪と「空っぽ」の切れ味
本多 お話の中に「オリンピック」というワードが何度か出てきていますが、東京オリンピックに対する思いを教えてください。
原 デザインがまだ活躍できていない。それでも五輪はやるべきだとおもいます。無観客・空っぽの国立競技場で、この機会がなくては絶対にできない感動的なセレモニーをやればいい。オリンピックというものに対するイメージを180度、いや360度変えてしまったほうがいいのではないでしょうか。
開会式も、無人の競技場を、一本の聖火を掲げた一人のアスリートが静々と歩いて登場するとか。か弱そうに見える小さな炎こそ、今日の世界の心を一つにする象徴としてふさわしい。そこに生まれる感動は、何万発の花火より大きく荘厳なものになるでしょう。その演出ができるのは世界広しといえども日本だけです。日本の美意識は、空っぽの運用によって発揮されるものですから。今の状況は、日本の美意識の切れ味を世界に向けて発揮する絶好の機会だと思うのです。
本多 最後の質問なのですが、2030年の社会はどうなっていると思いますか。
原 希望としては、世界の人が一番行ってみたい国に日本がなっていてほしいなと思います。そういうポテンシャルを持っていると思うのです。ごみごみした都会ではなくて、伝統や自然、そしてサービスが傑出した場所として日本が輝いていてほしいです。日本列島をよく見ると、本当に素晴らしいところがたくさんあって、食ももてなしも最高です。そのことに気がついていない日本人が多すぎます。日本の可能性に日本の企業もう少し気づいてほしい。工業製品やハイテクで世界を席巻することだけではないリスペクトのされ方があるはずです。それが目に見える形になっていればいいなと思います。
魚の研究 自然の神秘 つながった

DIALOG学生記者の藤崎花美です。原さんのお話の中でデザインは「澄ませる作業」というところにハッとしました。私は大学院で魚の進化について研究しています。研究では初めに仮説を立てて進めていくのですが、実験を重ねれば重ねるほど複雑な要素が明らかになり、仮説を明らかにできるどころか新たな課題が出てきたりします。多くの要素からある定理を導く研究が「澄ませる作業」だと感じたのです。ある意味、私の研究もデザインなのではないかと思いました。
ガラパゴスのお話が出てきました。進化の目で見るとガラパゴスは不思議なところだらけです。私は神秘に満ちた自然をみているとワクワクが止まりません。原さんの場合、なぜ人間は自然のままではなく掃除をするのかという点に注目されていました。私は考えたこともありませんでした。本当は謎のままであってもいいのかもしれないです。ですが、やっぱり気になってしまいます。私も時々研究という掃除をしている最中に「地球を見てみよう」の言葉を思い出し、原点に返って本質を見抜いていけるような観点を持ちたいと思いました。
原研哉(はら・けんや)
1958年生まれ。グラフィックデザイナー。日本デザインセンター代表取締役社長。武蔵野美術大学教授。長野オリンピックの開・閉会式プログラムや、愛知万博のプロモーションでは日本文化に根ざしたデザインを実践し、「もの」のデザイン同様に「こと」のデザインを重視して活動中。2002年から無印良品のアートディレクターを務める。