伝統との飽くなき闘い 型を重んじ、そして破る狂言師・野村萬斎さん:朝日新聞DIALOG

伝統との飽くなき闘い 型を重んじ、そして破る
狂言師・野村萬斎さん

By 藤崎花美(DIALOG学生記者)
藤原伸雄撮影

 「明日へのLesson」は、次代を担う若者と第一線で活躍する大人が対話するシリーズ。新年はゲストに狂言師の野村萬斎さん(54)を迎えました。

 対話に臨んだのは、古典に立脚した書道と、それに基づく新しい表現に挑む書家の万美さん(30)と、日本茶の魅力を広める事業を展開している株式会社TeaRoom代表取締役の岩本涼さん(23)です。

 野村さんは、世田谷パブリックシアターの芸術監督を務めるなど、様々な方面で活躍しています。昨年は新型コロナウイルスの影響で、度重なる公演の中止など困難に直面しました。歴史を背負い、未来へつなげる。3人の対話から、その手がかりが見つかりました。

疫病・応仁の乱…コロナも乗り越える

岩本 演劇界もコロナの影響を大きく受けましたよね。

野村 単純に公演ができない。5月から7月は全くありませんでした。世田谷パブリックシアターで芸術監督をしているのですが、稽古の最終日に中止が決まりました。非常にショッキングですよね。いい作品を生み出すための苦しみの後、やっと晴れ舞台に移ることができると思っていたさなかでした。ただ、私は能や狂言をやっていて、長い歴史観の中に生きているせいか、700年近い歴史をのぞくと、同じような状況はあったと思うんです。

 コロナによって、自分たちの生命の危機も感じるし、演劇の死も頭をよぎります。仕方のないことです。ですが、能や狂言の長い歴史の中には、疫病や応仁の乱、町中が焼けてしまうような危機がありました。それらを乗り越えて今に伝わってきているので、滅びないだろうとも思うのです。そういう気構えで、生きることについて考えないといけません。

 ただ、みんなが生きることに必死になっているときに、文化について大きな声をあげることは得だとは思いません。春が来るのを待つ間に、ひたすら稽古をしています。

岩本 コロナとどのように向き合い、春をむかえていくのでしょうか。

野村 コロナの中で、劇場にお客様をフルに入れられないことはもちろんですが、そもそも人が集まらない劇場もあります。その分、配信したり、いろんなことを試したりしながら、なんとか絶やさずにしていこうとしています。伝統は、生きている人間がやらなければ伝えていくことができません。生きている人が生きている人に贈るメッセージなんです。

万美(まみ) 1990年生まれ。9歳で筆を持ち、高校時代から書家を志す。ヒップホップカルチャーのひとつ、グラフィティを書道と同じ視覚的言語芸術と捉えた「Calligraf2ity」を確立。個展やパフォーマンス、作品展示は日本をはじめ、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどでもCalligraf2ityを表現している。現在は東京に拠点を置き、国内外を巡る。

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鬼滅の刃 解体と創造のサイクル

万美 伝統の意義、型をどのように考えていますか。

野村 型は型として、洗練されたデジタルな手法です。型を守れば、必ず人は喜ぶので結果が保証されています。ですが、個性はどうなるのでしょうか。型を通して「今」をどれだけ生きているかを見せないと、「先輩のほうがいいじゃないか」ということになってしまいます。常に伝統と闘いながら生きているのです。

 簡単なのは、料理で例えることですね。レシピは一緒ですが、「暑いから塩をきかせよう」とか、「疲れているからスタミナをつけるためにガーリックを加えよう」という、ちょっとした塩梅(あんばい)をするところに料理人の腕があるわけです。

 『鬼滅の刃』がどうしてはやったのかも、考えてみたりしますよ。そうすると、今までにあったものの集合体だったりするんです。能にも鬼が出てきます。今はやっている、はやっていないではなく、昔からあるものを、どのようにアップデートしてきたかというサイクルがあるんです。

 シェークスピアだって世阿弥だって、全部元ネタから考えているわけではないと思います。解体と再創造。今までのものをただ繰り返すのではなく、どう咀嚼(そしゃく)し、再創造するか。そこに初めて、今日的な意味を持った作品ができあがります。

人を笑うこと 笑われること

岩本 僕は茶道の本質を「向き合うこと」だと思っています。自分自身、一人の相手、複数人、それぞれで向き合う体験を、喫茶に落としていきたいと思い、起業しました。能や狂言で、変わらないもの、大切にしていることは何でしょうか。

野村 様々な角度がありますが、演じる側からすると、技術がないと始まりませんね。ものを感じることも大切です。そしておっしゃるように、相手を一人称、二人称、三人称以上と考える体系は、人間社会の中に常に存在していると思います。言語体系もそうです。

 ですが、日本語は面白いことに、主語がなくても通じます。狂言で「このあたりのものでござる」というセリフがあります。外国で公演するときに、「I am」と訳すことがあるのですが、それって「I」なのかと、いつも考えるんです。見ている人も含めたコミュニケーションを考えると、「We are」 のほうが、表現としてみんなに開かれていると思います。

 狂言では人を笑わせる場面がありますが、人を笑うというのはある意味、批評しているということなんですよね。「こんなバカなことするやついないけど、たまにいるから笑っちゃうよね」「自分もたまにこんな失敗するけれど、はたから見るとおかしいよね」といったように、本気で馬鹿にしているわけではなく、少し引いて見ている。

 人間は普段は理性をもってブレーキをかけているけれど、狂言に理性はなく、みんなの代わりに堂々とやってくれる。そこにカタルシスを感じるという時に、見る人が禁をおかしているかというと、そうではなくて、そこには役者との共犯関係がある。先ほどの「このあたりのものでござる」は、「俺たちこのあたりのものだよね」でもあり、だから「We are」じゃないかと。役者がお客さんの代わりにバカなことをやるという共犯関係を生み出しているわけです。

岩本涼(いわもと・りょう) 1997年生まれ。裏千家での茶歴は14年を超え、現在は株式会社TeaRoom代表取締役を務める。サステイナブルな日本茶の生産体制や業界の構造的課題に対して向き合うべく、静岡県大河内地域にある日本茶工場を承継。2020年には農地所有適格法人の株式会社THE CRAFT FARMも設立した。

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お客さんがエネルギーを吸う

万美 体でエネルギーを発することで、会場全体を笑わせることもありますよね。

野村 ライブでは、エネルギーを使うことで笑わせますね。コロナで公演ができない時期、息子や自分の稽古をしたり、体力を落とさないように走ったりもしていたんですが、不思議なことに、お客さんがいないと、エネルギーの消費量が全然違うんです。

 今、改めて舞台に立つようになると、疲れてしょうがないんですよね。大きな会場にいるだけでもエネルギーを使うんだけれども、お客さんの反応でもエネルギーを使うんです。入りが半分の時と、フルの時でも違います。お客さんはこんなにエネルギーを吸うんだなと実感しました。

岩本 海外では「We are」を使うんですか?

野村 海外では使いません。そうすると「I am」になりますが、なるべく解説で「本当はこう言いたい」ってことを伝えます。「We are」って、いま世界的に言われているダイバーシティーの象徴だと思うんですよね。なんでも「I」と区切るのではなく、「We」という、多様性を包括するような考え方をとるのは、もしかしたら縄文時代から続く、ある種の精神性のようなものなのかもしれない。

 言葉で「多様性」といいながら、もともとの文化が「I」という人たちに、「We」の精神性をどう伝えていくかは、難しい課題です。「あなたと私は違いますから」という議論になってしまいそうですよね。そうではなく、逆に知らない人がそこに入ってくれるようなプレゼンテーションを、我々はしないといけないと思うんです。『北風と太陽』の北風のように、ビュービューと「多様性はこうです」「一人称をやめよう、全てがWe areです」と言うと、だんだん原理主義的になる。そんなことを言いたいわけではありません。

狂言の英訳 モンキーダンス?

万美 海外公演では、舞台の最初に解説が入るのですね。

野村 最近はそうしていますね。英語だと、こちらも聞きながら「そうじゃないよ」って思うところもあったりしますね。通訳の方の認識度によります。狂言は、猿楽だから「モンキーダンス」と訳したという話が昔、あったみたいです。ちょっと違う気がするけどね(笑)。

万美 海外公演で、言葉の壁はどう越えているのでしょうか。セリフが独特で、現代の日本人でも使わない言葉がありますよね。

野村 全文、パワーポイントで字幕を見せるので、かえって壁はないと思います。日本公演のほうが、日本語のままやるので、外国語並みに分からない部分もあるかもしれません。他にも、舞台上にはないものを見立てで表現するので、何をしているのか分からないこともあると思います。壺(つぼ)や椅子に見立てていることを、説明せずに理解してもらうことが完成だと思うんですけどね。日本人の場合、生活習慣で昔の時代と共通しているものが多いとはいえ、なくなってしまったものは分かりません。

映像なくても「ズームアップ」

岩本 能や狂言では、日本語や英語の字幕があったほうが理解しやすい、という友人もいます。そういう若者のほうが最近は多いのでしょうか。

野村 一字一句、分からなくてもいいのでは、という思いもあります。古来の日本人も、全員が中国の故事に精通していたわけではないと思いますし、全て理解していたわけではないと思います。場面場面で、どのようなエネルギーが働いて、どういう緊張感があるのか。音の質感や強弱、リズムなど、様々な表現のニュアンスがあります。それがどのような形で伝わってくるかを感じてほしいです。

 音以外にも、たとえば1人にスポットライトを当てるのは、テレビでいうと「アップ」の撮影になります。橋掛かりを歩いている場面は、「引き」での撮影。そして、柱を越えて前を向いた時には顔が見えるため、お客さんの視線が勝手に役者の顔に「ズームアップ」してくれます。

 能や狂言は、映像のない時代に作られたので、演出が計算されています。このため、全部理解しようとするのではなく、どんな顔をしているのか、どんな服を着ているのかなど、自分なりの視点から感じてほしいなと思います。

 自己紹介の道行きの場面では、役者が動かず、周りの景色が動いていく演出になっています。この演出って結構、今っぽいと思いませんか? プロジェクションマッピングで風景が変わるように、舞台の景色が変わっていくわけです。ドラマのように、本人が動かないといけないとなると、延々、飛行機が入るとか、「到着しました」というのを撮影しなくてはいけません。このような視点から見ていただいてもいいんです。

面・かつらを着けると瞑想状態

岩本 初めて狂言を見にいったときは、眠くなってしまって……。

野村 次は、あきらめずに見ていただけるとうれしいです。だんだんと分かってくると思います。逆に、分かりやすいものだったら見なくていいのではないか、とも思ったりします。普通の人ができることを、お金を払って見る必要はありませんよね。普通の人ができない、特別な世界を見ることに意味があると思います。

 能や狂言では、面をよく着けます。面を着けると視界が狭くなり、視覚がなくなります。更に、かつらも着けているので、聴覚もなくなります。そうすることで、瞑想(めいそう)状態に入ります。視覚がない状態で、平衡感覚を訓練しているんです。通常ではありえない状況で、五感を研ぎ澄まします。

 このあいだ、視覚障害者の方が案内してくださる、真っ暗な庭に行きました。目が見える人はいちいち確認しながら行くのですが、私はスッと歩いてしまったんです。そんなことができるのは宇宙飛行士と能楽師だけだと言われ、「なるほど」と思いました。人間は開発されていない部分があって、それを開発するためにいろいろな道があると思います。

万美 限界を超えると、違う世界に行ける。

野村 「人のパンツをはけ」という言葉は、大切だなと思っています。よく「人のふんどしをはくな」といいますよね。ふんどしだと、自分のサイズに締め上げられるからなんです。偉い先生のパンツは、とても大きい。そうすると、自分が太らないといけません。個人的な満足をすると、自分サイズに全部まとめてしまうことになる。古典の知恵は代々、先輩方が努力をし、全方位的な幅を持っています。自分の可能性以上に幅を持たせることができるところも、伝統芸能の面白さだと思いますね。

「大きくお茶をたてる」って?

万美 能や狂言以外にも様々な挑戦をなさっていますが、それについてはどのように感じていらっしゃるのですか。

野村 様々な人とコラボレーションすると、同じことをしても、違う感性なんだと感じます。大小、強弱でもジャンルが違いますね。「大きくお茶をたてましょう」と言われたとしたら、どうしますか?

岩本 壺でたてるとかですか?(笑)

野村 それは量の話ですね。もしかすると、「ダイナミックにたてましょう」という話かもしれません。言葉の受け取り方次第なんです。「大きい書を」と言ったら、「大きな字を書く」のか、「スケールが大きい」という意味なのか。業界が異なると、感性も異なると感じます。

 同じ業界、たとえば舞台芸術でも、古典芸能と現代劇では感性が違いますね。「大きくやって」というアドバイス一つでも、古典芸能だと「人物としてスケールを出せ」という意味ですが、現代劇だと「大芝居をしろ」ということだったり。きちんと説明してもらえると納得できるような近似値はありますが、ぱっと言葉で聞くと、理解に困ることもあります。

 経験の浅いお弟子さんは、言葉の表面的な意味だけで理解しようとします。なので、先生の大きさを、住み込みで生活をともにすることで感じ取り、理解していくことが大切なのかもしれません。本当に勉強するのであれば、異なるカルチャーに入っていくくらいのことはしないといけないですね。

万美 型を学ぶ際に、感覚で学んでいく部分も多いと思います。

野村 説明できるなら、マニュアルを読めば済みますよね。だけど、実際はそうではなく、先生の言っていることが分からないとか、不条理だなと思うことはある。昨日は「大きく」と言っていたのに、今日は「小さく」と言われたり。私の場合は親子なので、余計にイライラしたりするわけですよ。本当に不条理なわけではなく、その時の状況や前後関係など、様々な事情が関係してくる。その大きな意味が理解できないと、ただ「反対のことを言っているだけじゃないか」で終わってしまいます。

 「分からないことを大切にする」というのは、一つの感覚なんだと思います。「人のパンツをはく」って、どうしたらその幅を埋められるのかなと考えること。自分のサイズでは理解できなくても、他人のサイズにすれば分かるのかなと考えることも大事です。

ミッキーのはるか昔 ネズミの狂言

岩本 万美さんは先日、ミッキーマウスの作品を書かれたのですよね。

万美 そうなんです。ミッキーマウスを漢字だと考えたんです。というのも、ミッキーマウスというと、世界中の人たちがワクワクする気持ちになって、それにつながる言葉が浮かんでくるんじゃないかなと思ったからです。

野村 記号的に解釈できるということですか。

万美 はい。なので「?」「!」のような記号として、ミッキーマウスは存在していると解釈しました。ミッキーを見ることで、更に多くの楽しい気持ちや「あの人、元気かな」というような感情を呼び起こせたらいいなと思い、作品を作りました。

野村 まさしくミッキーマウスを解体し、書によって再構築するということですね。ミッキーの狂言も考えてみましょうか。ミッキーというアイコンをどのように狂言的に再構築するか、面白いですね。

岩本 時代に合わせて物語を作っていくというのはいいことなのでしょうか。

野村 悪いことではないと思いますよ。ネズミが出てくる狂言は、ミッキーの何百年前からやっていますから。『鳥獣戯画』の頃から発想はありますよね。日本の文化は「スライド文化」だと思うんです。前を否定しないで影響を受けつつ、スライドしながらつながっていく。雅楽や舞楽があって、能狂言があって、歌舞伎があって、宝塚歌劇や新劇ができたのかもしれません。延々と、様々な演劇のバリエーションが残っている国なんて、他にないですよ。

 普通はオスマントルコやローマ帝国のように、文化が征服され、地層のように下に埋まってしまいます。日本は、天皇制を否定しないで征夷大将軍を置くという発想を持つ国ですからね。

ものすごく重い縦軸 背負って

岩本 ある哲学者が「伝統は、死者との民主主義だ」と定義していました。現代の人だけではなく、死者ともコミュニケーションを取りながら、残ったものが後世に伝わっていくというのは、いい考え方だなと思います。

野村 死者や先祖は、自分を相対化してくれ、歴史や伝統の大切さを教えてくれる存在です。人間は、大事なことを怠ると、同じ過ちを繰り返してしまいます。「先人たちが築いてきたものを我々が受け継ぎ、未来につなげていく」という発想に、本質があるのではないかと思います。

 ですが現在、家業を継ぐ人や、先祖の土地を守るという発想はなくなってきています。「縦軸」の意識がなくなりつつあるのかもしれないですね。私は生まれた時から、ものすごく重い縦軸を背負っていたわけです。「自分が良ければいいじゃん」というのも本音です。ただ、縦軸に父や祖父がいて、息子である自分がいます。そこに、人間の節度が出てくると思う。縦軸の中で尊厳やリスペクトがあるからこそ、それぞれのアイデンティティーである、横軸を意識できると思うんです。多様性を語る上で、そこはとても重要です。みんなそれぞれの歴史を背負ってきているので。

岩本 自分の軸があるからこそ、他人の軸も尊重できるということですね。

野村 そう、つまりアイデンティティーなんです。芸術に携わると、理屈で言わなくてもドラマが生まれます。人の縦軸を感じ、自分にはないものとの出会いを喜ぶとか、そういう意識を持つことが大事だと思うんです。今をときめく人ほど、縦軸を意識せず、「今はこれでしょ」と言う人が多いのは残念ですね。

 伝統芸能に対しては結構、危機感を持っています。我々がそういう意識を持ち、「未来にどうつなげるか」を考えないと、ますます少数派になってしまう。「多様性が大事」だと言いつつ、インターネットを通して画一化され、全部同じ色になってしまう可能性もあります。みんなが公平になるのは必要だと思いますが、独自性をどう考えていくかも大切ですね。

ややこしや いま感じる歴史のロマン
藤崎花美(DIALOG学生記者)

 萬斎さんと聞いてはじめに思い浮かんだのは「ややこしや」のフレーズです。幼い頃、Eテレで放送されていた「ややこしや ややこしや」の謡が大好きで、流れてくるたびに一緒に歌ったり踊ったりしていました。この謡は、シェークスピア原作の「間違いの喜劇」を、狂言にアレンジしたもの。まさに、「解体」と「再構築」なのだな、と今回、お話を伺って感じました。白黒ストライプのだぶだぶのスーツに、フード状の帽子をかぶった萬斎さんと、全身黒ずくめで怖いお面をかぶった人々が、右へ左へと動きながら、最初はゆっくり、最後は跳ねながら「ややこしや ややこしや」と歌う姿は今も、目に焼きつき、耳に残っています。

 そして、詩はこう続きます。「わたしがそなたで、そなたがわたし。そも、わたしとは、なんぢゃいな」「ひとりでふたり、ふたりでひとり。嘘が誠で、誠が嘘か」。今考えてみると、映像から発せられるエネルギーを通して、萬斎さんの「We are」の共犯関係に、私も取り込まれていたのかもしれません。西洋と日本の歴史が融合した作品に子どもの頃から知らずに触れていたのかと思い、縦の軸、歴史のロマンを感じました。


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