

「明日へのLesson」は、次代を担う若者と第一線で活躍する大人が対話するシリーズです。今回のゲストは、作家・クリエーターとして多彩な表現活動で知られる、いとうせいこうさん(59)。東日本大震災後、被災地に通い続け、さきごろ「福島モノローグ」を刊行しました。
インタビュアーは、東北地方で心のケアの団体を立ち上げ、現在は美術展のキュレーションやアートスペースの運営などに携わる丹原健翔さん(28)。そして、震災時に宮城県多賀城市で被災し、現在は映像制作会社でディレクターとして働きながら舞台演出家・役者などの活動も行う三品万麻紗さん(23)です。震災から10年。表現者として震災をどう発信していくか語り合いました。
みんなの声を ここで聞かなきゃ
三品 東日本大震災のとき、私は多賀城市で被災し、祖母を亡くしました。当時は、体験を人に話せないなどの心の病はなかったのですが、7年くらい経って急に震災のことを話すのが苦しくなった時期がありました。今はだいぶ軽くなってきた感覚がありますが、いとうさんは震災から10年経って、震災に対してどのような関心をお持ちなのか、お聞きしたいです。
いとう 2月に河出書房新社から「福島モノローグ」という本を出しました。雑誌「文藝」の連載をまとめたものです。なるべく自分の言葉を載せたくなくて、タイトルからもわかるように、インタビューをする僕の言葉は一切削って、相手が一人語りをしているかのようにまとめました。
2013年に小説「想像ラジオ」を出しましたが、「僕のような震災の非当事者がこういう踏み込んだことを書いていいのか」という思いがありました。書いた以上の言葉を付け加えて誤解されるのが嫌で、インタビューは断っていました。その後、東北の書店を回ったとき、平積みになった「想像ラジオ」の上に載っていたPOP(書店店頭で本を宣伝するためのツール)の形が、僕にはアンテナみたいに見えたんです。「想像ラジオ」は、電波塔から発信している装丁でしたが、アンテナみたいなPOPを見て、逆に「みんなの声をここで聞かなきゃいけない。次は僕が聞く番だ」と思ったんです。それから、東京新聞や「文藝」などいろいろな連載を使って、話を聞きに東北に通っていました。

震災を知らない世代 どう震災を語るか
丹原 私も2013年から2015年にかけて、約200人の方に、できるだけインタビュアーの視点が入らないライフストーリーという手法でインタビューをして、図書館に所蔵する活動をしていました。いとうさんが7年くらいかけて話を聞いてきた中で、被災者の話し方や思いに変化はありましたか。
いとう それは個人個人の変化だから、一つに語るべきではないと思う。ただ、非常にびっくりしたことがありました。3回くらい話を聞いた日本舞踊のお師匠さんなんですが、ずっと子供の話しかしていなかったのに、最後のインタビューでは自分が老後どういうふうに生きていこうと思っているか、という話になった。人生って、そうやって時間が経つとフェーズが変わってくるんですよね。その師匠が言っていたんですが、もうすでに震災を体験していない東北の子供たちが育っています。彼らは被災地の外からは震災の当事者として扱われるし、それを演じなきゃいけないかもしれないが、震災のことは何も知らない非当事者でもある。
ここには、すごく重要な問題があります。僕は非当事者として震災のことを小説に書いたけれども、これから未来をずっと考えていくにあたって、非当事者も語る場を作れたことをすごく誇りに思っています。これは戦争を語っていくことと全く同じで、70年経って戦争を知っている人がいないときにどう戦争を語ったらいいか、日本では結局、有効な言説が出てこなかった。そのことの悪い効果が今、世の中に出ています。当事者であれ非当事者であれ、お互いにオープンにその体験や歴史に向き合い、語り合う権利があるし、そうすべきで、そういう自由な言説のスペースを作らなければいけない。それは表現者である我々の仕事だと思っています。

東北で「よく話を聞きに……」
丹原 「想像ラジオ」を読み直しました。私はこれまで当事者じゃないという自覚の中で、気をつけて仕事をしてきましたが、「こんなことをしていいんだ」と驚き、「確かに、これを残していかないといけないんだな」と思い、勉強になりました。
いとう 当事者問題は表現に必ず出てくる問題ですが、当事者では語れないことがあるというのも事実です。当事者だと近所の人たちがどう思うか、私がこんなことを言っていいのかとプレッシャーを感じてしまうことがある。もちろん、だからといって非当事者が何を言ってもいいわけではなくて、そこにはきちんとした批評の場がなければならない。
作品は、読み手によって、その時々でどんどん変わる。このことを常に語っていく場があるのかというのが、僕は心配です。被災者への補償がどんどんなくなって、10年だからと区切りをつける方向にどんどん行っている。10年を超えたら、さらに語られなくなるんじゃないか、と現地の人も思っています。僕が行くと、「よく話を聞きに来てくれました。もう東京の人は東北なんて見てないと思っていた」と言われる。「これからも何度でもお話を聞きに来ますよ」と伝えて帰るんですけど。
議事堂乱入の生々しさ どちらから見るか
丹原 現地でも震災を体験していない子供たちがいて、より「想像する」ことが大事になってくると思います。震災に限らず、世界中で当事者性を持てないような様々な問題が発生している中で、想像力とはどういう能力になっていくと思いますか。
いとう それは、10世紀でも15世紀でも変わらないと思う。もし違いがあるとすれば、今はネットに映像が上がってくる。それを考えずに想像という大きなもので考えてしまうと、的確じゃなくなるんじゃないですかね。
アメリカの議事堂に乱入した人たちが自分たちで撮って発信した動画を我々が見たときに、その問題の生々しさをどちらの側から受け取るのか、当事者性を持って冷静に判断をしなければいけない時代になっている。そういうものが次々に入ってくるから、普通の人にとっては非常に大変だし、疲弊しているんじゃないか。
だから、わからないことに関しては、判断を留保して置いておくことも大事だと思う。判断留保すると「あなたはこの件を無視している」という批判が必ず起きてくる。しかし、まだ何もわからない情報に関して勝手な想像をするべきではない。

「これ以上は進められない」それでも
三品 「想像ラジオ」をカフェで読んで、泣いたんです。人目を気にせず、その世界観に没頭したときに、私はホッとした。心が軽くなった感覚がすごくあって、救われたなと。今のお話をそれと重ねて考えたときに、想像することが好きだったはずなのに、Twitterを見たり、いろんな人とお話ししたりする中で、とにかくできる限り多くの事実を受け入れて、自分で考える力を養わなきゃみたいなプレッシャーを過度に感じてしまっていたんだと気づかされたように思います。
いとう たとえば、「想像ラジオ」に出てくる木の上に引っかかっている主人公の男は、写真や映像で見たらあんなふうにはなっていないと思うんですね。でも僕は、男が一人逆さになって木の上に引っかかっていると書いただけで、そこから先は読者がそれぞれ想像しているんです。それが作家の倫理であり、他のメディアではできない小説の機能です。杉の上に引っかかった人がいると聞いたのは宮城県でした。そのことが頭にこびりついて、その日の夜に「想像ラジオ」というタイトルが頭にポーンと降りてきた。
三品 書くプレッシャーや苦しさがあったと思うのですが、いとうさんは何に救われて書いていたんですか。寄り添っているものが自分の中に何かあったのですか。
いとう 僕は覚えていないのですが、担当編集者がこう言っていました。「これは僕が書くべきことじゃない」「これ以上は進められない」と言って、何度も筆を投げていたと。だけど、じゃあなぜそれを続けて書こうとしたかというと、おそらく「すでに書いてしまったものをむげにできない」という気持ちですよね。何人もの人間をそこに登場させて、エピソードもあって、書き継ぐ以外にどうしようもない、生んでしまったものは外に出さなければという気持ちがあった。
このテーマを書かないで他のことを書くのは逃げだから、それをやるなら僕はもう一生書かないだろうと思っていました。これだけ多くの人が亡くなって、亡くなった人の周りにたくさんの人がいて、土地が荒涼として、原発が水素爆発して、放射能がまかれて……。こんなことが起きているのに、「家でこんなことがありました」なんてことを書いていたら、それは恥ずかしいことだと思っていました。

共通項は「人間だ」 それ以外ない
三品 私は舞台を作るのが好きで、今まで音楽劇を作ってきました。今回、丹原さんと打ち合わせをしたときに、「私、『想像ラジオ』で舞台作りたい」って言ったんです。
いとう わかります。「想像ラジオ」を映画化したいという話はありましたが、映画化はできないと思いました。唯一できるとしたら演劇かな。でももちろん小説家としての狙いはあるわけで、読んだ人にとってそれぞれの時間が流れていくということは、文字の芸術だと可能なんです。そういう、小説でないとできないことをやりたかった。僕は音楽やテレビの仕事もしているから、音楽にはかなわないことは音楽でやる、小説でしかやれないことは小説でやる。それをすごく確信的にやっているつもりなのに、指摘してくれる人があんまりいないから、がっくりくるんだけど。
「表現に何ができるか」と一般化して言うのは違うな、と思うのはそこで、「小説だとこれができます」というように丁寧に語っていかなければ、雑駁(ざっぱく)なものとして届いてしまう。だけど、人間だから、というのは積極的に一般化するべきところで、千差万別の職業に就いている人あるいは就いていない人に何かを届ける場合、「我々の共通項は何か」といったら「人間だ」ということ以外に何もない。それがすごく大事な力になる。東北にも亡くなった人がたくさんいて、今も生きている人がたくさんいて、また別の苦しみを持っている人たちが別の場所にたくさんいる。お互いを想像でいたわりあうということは、すごく大事で、人間らしいことで、目指すべきことです。
被災学 東北の暮らしの中から
いとう 今、僕は「被災学」をやりたいと思っています。どういうことかというと、災害が起きたときにメンタルケアはどうすべきか、被災された方あるいは難民の人たちがどうやって一時的に暮らすか、あるいは2、3年経ったらどういうところで暮らすべきなのか、そもそも被災したら最初に何が必要なのか。そういうことを東北の方々が主導して声をあげてほしい。100年かけてやる被災学というものの最初が、たまたまこの10年だったと思わないといけない。10年経ったので終わります、補償も打ち切りました、さよならバイバイではないよと、ここからなんですよと。防潮堤ができればもう終わりという問題じゃないよ、人間だから心があるよ、と。
丹原 いとうさんのおっしゃる通り、「支援者の支援」がすごく大事というのは、まさに震災後、多く言われるようになったと思っています。僕も韓国でのセウォル号転覆事故(2014年)やネパール地震(2015年)の後に現地に入って、それを感じました。これからの100年で、きっとすごい出来事がいくつもあると思うんですけど、その中で東北での学びが残っていくことが、すごく大事だと思います。
いとう そのことを東北の人たちが誇れるような被災学ができるといいと思う。学者みたいに言えなくても、暮らしの中で「あのときこうだった」とお話ししてもらって、被災学の側がそれを拾っていく。
三品 いとうさんがおっしゃるように、みんなが救われる場みたいなものが間に合えばいいなと思います。意識のアンテナが張れていれば、その場所に集まれるけれど、コネも何もない個別のコミュニティーにいる人たちに届くかどうかは賭けに近い。それを届けることができるのは、表現者でありマスメディアだと思っています。
いとう マスメディアと、ボランティアや隣人ですよ。「おばあちゃん、このごろ出てこないけど、どうしたの」って、言っているか言っていないかということ。これからボランティアの人がそれをやっていくんだろうと期待しているし、僕らはそれを別の形で手伝いたいと思っています。
自分なりの方法で未来につなげる
岸峰祐(DIALOG学生記者)

高校生のとき、東日本大震災を題材にした演劇を上演しました。いとうさんのインタビューを聞き終えて思い返すと、非当事者が演じることの責任や作品に込められた意図を、より一層考えて演じるべきだったのかもしれません。
東日本大震災から10年が経ち、震災を知らない世代も増えてきました。今から数十年後に、私たちの世代は何が残せるのでしょうか。過去を振り返ると、震災の学びを残していくのはきっと簡単なことではありません。それでも、被災学をはじめ、未曽有の事態に対する備えを今から少しずつ積み重ねておくことが必要だと思います。
今までは「被災者や被災地のために何ができるか」と視野を広げすぎて行動できずにいましたが、まずは友人や隣人に何ができるか、私の場合は表現者としても何ができるかを考え、地道に行動していくことが大切だと気づかされました。一人の人間として、できることはたくさんあります。自分には何ができるか、考えて、行動していく。それが、私たちが震災の学びを未来につなげる一番の道ではないでしょうか。