
音楽や舞踏を中心としたシリアスな能に対し、狂言は庶民の日常をコミカルに描きます。
8世紀に中国大陸から伝わった散楽という大衆芸能を源流として、室町時代に確立された狂言。その中でも「お豆腐狂言」として親しまれる茂山千五郎家で、新作狂言やバイリンガル狂言、コントなど新しい作品や表現を生み出し続けるのが茂山千之丞さん(40)です。
伝統の世界で追求する新たな笑い。その神髄を聞きました。
■伝統をつなぐ 日本の文化を形作る、工芸・美術・芸能といった分野の伝統。グローバル化やデジタル化の波にのまれ、継承が危ぶまれるものもあります。次の時代を見据えて活動する担い手にインタビューし、技や思いを伝えます。

安っぽい? それで結構
——茂山千五郎家の家訓「お豆腐狂言」にはどのような思いが込められているのですか。
昔に言われた悪口なんです。(能や狂言が)武士お抱えの芸能ではなくなり、廃業も多かった明治期、うちは一般の人々に親しんでもらおうという生き残り戦略をとりました。呼ばれたらどこにでもすぐに行って演じていた。
当時の京都には、町内に1軒はお豆腐屋さんがありました。「安っぽいもの」という意味で「お豆腐みたいな狂言だ」と言われたんです。そのときに「お豆腐みたいな狂言で結構です」と返したのが始まりですね。
お豆腐は毎日の食事にも出てくるけれど、高級な料亭でも使われている。だから、格調高い場に呼ばれたときは型や格式を重んじ、より多くの人の前ではフランクに楽しんでもらえる舞台をしようと。
修学旅行生向けの舞台では、言葉をわかりやすくしてみたり、本来の台本にはない動きやセリフを入れてみたり、子どもたちに受けるようにアレンジしています。
——狂言ならではの魅力とは何でしょうか。
日本の伝統芸能を何か見てみようかなという方に入門としておすすめです。狂言は長くても1本45分くらい。ストーリーが単純で、見て笑ってもらえるものが多いです。他の芸能につながるエッセンスも詰まっています。
600年前に書かれた台本でも結構、笑えるんですよね。はやっているお笑い芸人さんは常に見るようにしていて、笑いの形は変化していると感じます。でも本質的に人が何をおもしろいと思うかはあまり変わっていない。そうしたことを感じて楽しんでいただける芸能だと思います。

目の前に爆弾 「ご飯でも行く?」
——笑いの普遍性とは具体的にどういったものですか。
笑いの大部分は、ギャップをどうつくるかに尽きます。例えば、2人の男の前に火のついた爆弾が置いてある。それなのに「そろそろご飯でも食べに行くか」「うん、爆弾が爆発するまでには行こうかね」「そうやね、爆発するもんね」なんてのんきな会話をしている。そのように異常なシチュエーションで普通のことをしているとか、逆に普通のシチュエーションだけど出てくる人がおかしいとか。
——ご自身で狂言の新作を書き始めたきっかけは。
かつて同世代の狂言師とユニットを組んで、毎年12月に新作を上演していました。新作をやると狂言ファンにも好評ですし、新しいお客さんが見に来てくださいます。いつもは作家さんに書いてもらっていましたが、ある年、誰にお願いするか全く決めずに夏の終わりになってしまって……。そこで仕方なく書くことにしました。
狂言をやる中で「このストーリーはこうなったらもっとおもしろいのに」といったことをよく考えていたので、書けるんじゃないかと。残念ながら、自分が見たい新しい狂言を誰もつくってくれない。だから、自分でつくり続けています。

研ぎ澄まされた古典 シンプルで温かい
——狂言にとどまらず、コントもつくられるようになったのはなぜでしょうか。
狂言をつくる中で、しゃべり方や演出を考えると狂言ではできないネタがたくさんたまっていきました。でもこれ絶対おもしろいからどうしようかなと思ったとき、じゃあコントでやろうかと。短い時間で、ジェスチャーと声だけで笑わせる作業はほぼ一緒です。だから限りなく狂言に近いコントも、コントに近い狂言もあります。
——昔からの作品は、新作とどのような違いがあるでしょうか。
古典の作品は何百年もかけて研ぎ澄まされてきたものです。時代とともに削られていき、良くも悪くもとてもシンプルで、おもしろいと同時にきれい。大声で笑うというより、温かい気持ちになれる作品が多いです。対して新作は、今のお客さんを笑わすために雑なものをたくさん乗せています。シンプルさでは古典に勝てません。

バイリンガル 言語の壁を越える
——日本語と英語が入り交じるバイリンガル狂言もされていますね。
言語の壁を越えて広げる目的で公演をしています。
もともとは僕の父が「海外のお客さんのために何かできないか」と考えて始めました。僕はインターナショナルスクール出身で英語が話せるので、それを引き継ぎました。
狂言のセリフは、繰り返しが多いんです。ある人が「〇〇です」と言ったら、別の人が「なんだって、〇〇なんだって」と返す。セリフの一方を英語にすることで、片方の言語しかわからなくても理解できます。英語しかわからない方でも字幕なしで舞台を楽しめるのが、バイリンガル狂言のいいところです。

「昔からそうだから」疑ってみる
——狂言師として心がけていることはありますか。
伝統に対しては、少し懐疑的な視点を持っています。伝統芸能の世界は「考えない」みたいなところがあって。「なぜこれをするのか?」という質問に対して、一番多く返ってくる答えが「昔からそうだから」。その答えが100%間違っているとも思いませんが、「昔から続いているのはなぜなのだろう」と考えるようにしています。
先代の千之丞は「この世の中に自分の知らないことがあるのが腹が立つ」と言っていました。生きているうちに可能な限り、あらゆることを知りたいという人でした。
僕も、なるべくたくさんのことを知っていたいと思うようになりました。「どういうことなんだろう」と考えていると、その知識が別のところで役に立つこともある。おもしろいなと思いますね。
——伝統を広めるという立場とは少し違うのでしょうか。
茂山家には同世代の狂言師が5人いて、長男の千五郎が家の伝統を守っています。一番年下の僕はラジカルな担当で、日々新しいものやおもしろいをつくったり、改良したり。狂言師というより、プロの喜劇屋さんというほうが自分の気持ちに近いですね。笑いに関するものなら、どんな仕事も受ける準備があります。
狂言には必ず共演者がいるので、それぞれがおもしろい活動をして新しい仕事を持ってくることによって、茂山家全体として共存できています。

未来のため 今おもしろいものを
——これからの狂言について、どう考えていますか。
古典的なものは技術として継承しつつ、今おもしろいと思ってもらえるものをつくり続けることで、結果的に伝統になると思っています。つまらないものを演じていたら見にくる人はいなくなりますし、誰も見なくなったら伝統になる前に終わってしまいます。
古き良きスタイルの狂言が見たいお客さんのために伝統的な舞台を上演しつつ、おもしろいものが見たいというマジョリティーのニーズに応えていく。見て楽しめるものをつくる、芸能として進化し続ける。この二つが必須ですね。

一見さんお断り 試してみたら
——狂言に限らず、日本文化の継承に大事なものは何でしょうか。
一つは、担い手とのマッチングです。伝統文化に関わりたい人が仕事として担えるように、情報が若い人に行き渡ればいいなと思います。
もう一つは、宣伝の仕方です。今は、宣伝しすぎて安っぽくなっている印象があります。
伝統文化を楽しむためには、ときに教養が求められます。「勉強してでもその文化に触れたい」と思ってくれる人を増やすことが不可欠です。
「誰でもウェルカムですよ」という作戦がうまくいっていない以上、ターゲットを限定したほうがはやるかもしれません。例えば、「一見(いちげん)さんお断り」にして、本当に興味がある人だけを受け入れてみるのはどうでしょう。あるいは、会員制のクラブをつくってみる。その中で楽しそうにしていたら、ほかの人も気になってのぞきたくなりそうです。
その文化に関わる人が楽しそうにしていることが、まずは大事だと思います。
あくなき探究 愛があるから
永井綾(DIALOG学生部)

伝統芸能のどこかお堅いイメージとは裏腹に、千之丞さんはおしゃれな眼鏡をかけた、まさにお豆腐のように柔らかい雰囲気の方でした。既存の狂言をよりおもしろく演じようとストーリーや登場人物と向き合ううちに、創作につながるアイデアが蓄積されていったそうです。新作もコントも、その根底にあるのは狂言への愛なのだろうと思いました。自身のことを狂言師よりも「プロの喜劇屋さん」の方がしっくりくると言う千之丞さん。プロの手でアレンジされ続けるお豆腐を、実際に味わってみたくなりました。
「今」を積み重ねて古典となる
岸峰祐(DIALOG学生部)

日常生活の中で触れる機会のほとんどない伝統芸能。なんとなくとっつきにくいイメージがありました。そんな中、千之丞さんのお話で印象的だったのが、「古典的なものは技術として継承しつつ、今おもしろいと思ってもらえるものをつくる」という言葉でした。
時代の変化に応じて、伝統芸能もまた日々進化している。それによって伝統として続いてきた狂言のこれからを、親しみをもって見守っていきたいです。
茂山千之丞(しげやま・せんのじょう)
1983年生まれ。本名・茂山童司。大蔵流茂山千五郎家の狂言師。3歳で初舞台。インターナショナルスクールに通っていたこともあり英語が堪能で、テレビの語学番組にも出演。2013年から作・演出を手がける新作“純狂言”集「マリコウジ」、コント公演「ヒャクマンベン」を始動。2018年、三世茂山千之丞を襲名。