夢をかなえるキーワード |
4万人の聴衆が見つめる舞台の中央に、5人が進みでる。2007年、メキシコで開催されたミスユニバース世界大会。最終審査に、当時19歳の私は残っていた。まぶしいまでの照明を浴び、発表を待つ。
「4位、アメリカ」「3位、韓国」「2位、ベネズエラ」
最後のふたりに絞られても、私はまだ残っていた。心臓が高鳴り、思わず胸に手を当てる。舞台に立つ前にはカツ丼を食べ、「自分ならできる」と自己暗示を繰り返していた。夢がもう、夢でなくなるかもしれない。
まもなく、1位と、それをしのぐ最高栄誉のミスユニバースが相次いで呼ばれる。実際には、1位が呼ばれた瞬間、勝者は決まる。日本代表か、ブラジル代表か。司会者の声が響く。
「1位はブラジル!」
最後に残ったのは私だった。思わず両手で口を覆う。ミスユニバースに与えられるクラウン(王冠)をかぶせてもらっても、笑みがでない。頭は真っ白だった。あれほど練習してきたのに、笑顔がつくれない。司会者の声に押し出されるように中央の花道を歩き出してようやく、口元を緩めることができた。日本人では48年ぶりの頂点だった。
勝負は、イブニングドレスや水着姿の審査といったステージ上の演技だけで決まったわけではなかった。大会までの1カ月間、約80人の各国代表は2人1室の共同生活でホテルに泊まり込み、連日、大会リハーサル、写真撮影やチャリティ活動、取材などのスケジュールをこなしていた。睡眠時間は3時間ほど。誰もがストレスをため込んでいた。そのなかでも感情をコントロールできるか。誰とでも分け隔てなく接することができるか。そうした日常の振る舞いを観察されていたのだ。
私は幸い、そうしたストレスをやりすごす術を身につけていた。
15歳でカナダへ渡り、高校とバレエ学校をかけもちする生活を送っていた。言葉の壁、文化の違い、左足のけが……。3年間、毎日のように涙を流した。それでも、なんとかくぐり抜けてきた。
だから、ストレスの高い世界大会でも、素の自分を見失うことはなかった。メキシコ到着直後にあったパーティーには、機内で着ていたジャージー姿のまま出席しても堂々と振る舞えた。食あたりを起こしても、「体重を減らせる」とポジティブにとらえられた。睡眠時間が削られても、笑顔を保ちつづけることができた。
もちろん、審査を前に、過去10年間の世界大会のビデオを見て研究も重ねた。ポージング、ウォーキング、メディア対応……さまざまな練習を繰り返した。もう神様に祈るほかないほど、やれることはやり尽くした。そう思えていたためか、決勝の舞台でも楽しもうとする余裕があった。涙の日々が力になったのだ。
大学受験も似たところがあるかもしれない。
緊張するようなら、本番を前に、桜の舞う入学式で自分が正門に立っている場面をイメージすればいい。何度も何度も思い描いて、自分を暗示にかける。もし準備が足りなくて不安を感じているのなら、焦ることはない。
「無駄な寄り道なんてない。どんな結果でもかならず何かにつながっていく。希望に届かなかったら、そのときは運命なのだと思おう」
そう考えれば、少しは心を落ち着かせることができるのではないだろうか。
ダンススタジオを主宰する母のもとで、ジャズダンスを始めたのは4歳のとき。どちらかというと引っ込み思案で、内向きだった私。その目が外に開かれたのは「ハリー・ポッター」にであってからだった。英語に目覚め、繰り返し6回も見た。辞書を引きながら原書も読んだ。「海外に行きたい」はいつしか「海外に行く」へと変わっていた。
15歳のとき、ロシア・サンクトペテルブルクのバレエ団の公演を見て、身震いした。海外で活躍できるダンサーになりたいと、カナダ留学を決める。突然、「やる気スイッチ」が入ったのだ。それまで、そんなスイッチが自分にあることさえ知らなかった。
そして、4年後、世界の頂点に立つことができた。
ミスユニバースに就任してからの1年、チャリティ活動などで15カ国を回り、飢えや貧困、HIV/AIDSなどの問題も目の当たりにした。「ミスユニバース」という職業は、いきなり社会の現実を突きつけた。理世という名前は、世界を理解できる人に、という願いからつけられたという。思えば、名前通りの道を進んできた。
いま、故郷の静岡で、母とともに設立したダンスアカデミーでこどもたちに接している。担当は、2歳半から12歳までのジュニア・キッズクラスと大人の上級者クラス。私が与えてもらったものを、こどもたちに伝えていきたい。ミスユニバースの任期を終えても、その精神は消えない。いまも透明のクラウンが頭に載っているかに意識している。
「目には見えてないかもしれないけど、チャンスはそこらじゅうにある。そう、だれの目の前にもある」
夢を夢に終わらせず、自分の手に入れるには一歩を踏み出すほかない。(聞き手・諸永裕司、撮影・高山顕治)