20年ほど前にスタートし、11年間放送されていた日本テレビのバラエティー番組『天才たけしの元気が出るテレビ(以下、元テレ《げんてれ》と記す)』、私はずっとレギュラー出演していたのだが、その番組を足がかりに、たくさんの頼もしい若者たちが誕生していった。
元WBA世界スーパーフライ級チャンピオンの飯田覚士さんもそのひとりだ。
元テレは、毎週日曜日夜8時から9時までの、いわゆるゴールデンタイムに放送されていた。
番組を見た人たちが月曜日から始まる学校や仕事などに対して、「よし、私も明日からまた頑張ろう!」と思ってもらえるような、“元気が出るネタ”をたくさん放送し、高視聴率が続いた人気番組だった。
飯田覚士さんが出演したのは、番組企画の『ボクシング予備校』というものだった。
ボクシング好きの若者たちが、プロボクシングの元世界チャンピオンたちから指導が受けられ、望むならプロへの道も開けるかもしれないという企画だった。
それに応募してきたのが、当時(1990年)岐阜経済大学3年生だった飯田覚士さんだったのだ。
大学入学と同時にボクシング部に入った彼は、「元世界チャンピオンの指導が受けられる!」という番組企画のうたい文句に魅せられ応募してきただけで、プロになろうとは思いもしていなかったという。
ところが、あれよあれよという間にボクシングの腕をあげ、飯田選手は1992年2月、大阪府立体育館で行われた“全日本スーパーフライ級新人王”のタイトルマッチに挑戦するまでになっていってしまった。
そしてこの戦い、なんと相手は、同じく元テレ・ボクシング予備校出身の松島二郎選手だったのだ。
私はボクシング予備校のリポートをずっと担当していたのだが、この戦いはつらかった。
彼らはボクシング予備校が始まった当初からその実力が肉薄し、階級も同じということもあり、常にライバル視されていたのだ。
しかし、グローブをはずせばふたりとも普通の若者、たわいない話で盛り上がり、ケラケラ笑い転げている姿を何度も見たものだ。
が、いったんリングに上がれば、やはりライバル。
勝負の世界は仕方ない。
松島選手も素晴らしい選手だったが、この新人王のタイトルは飯田選手がもぎ取った。
そしてあろうことか1994年3月には、名古屋レインボーホールで日本スーパーフライ級タイトルマッチが行われ、これまた飯田選手と松島選手の戦いとなったのだった。
ボクシング予備校を企画した番組担当者たちや出演者たちの予想をはるかに超えた彼らの活躍は、応援している私たちにとってうれしさや感動を通り越し、もはや“奇跡”とさえ感じられるほどだった。
この戦いを見守る視聴者や元テレ関係者の気持ちは、みんな同じだったと思う。
どちらにも勝たしてあげたい……
しかし、8ラウンド目に決着はついた。
TKO
飯田選手の手が高々と上げられたとき、リングサイドで見ていた私の隣で、私と同じくボクシング予備校をずっと担当してきた若いディレクターの目から大粒の涙がこぼれた。
リング上のふたりと、この若いディレクターを見ながら、
私も泣けた……
(次週に続く)