斉藤斎藤という名前は知られているが、プライベートはあまり明かされていない
「斉藤斎藤」。一度聞いたら忘れない、この奇抜な名前を「本名です」と言ってのける人物。知る人ぞ知る、気鋭の若手歌人だ。
〈お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする〉
2005年3月、斉藤の初の歌集「渡辺のわたし」の批評会が東京芸術劇場の大会議室で開かれた。パイプいすの補助席が用意されるほど、会場はあふれた。パネリストには、岡井隆、小池光、穂村弘という著名歌人が並ぶ。
「俵万智のように新しい時代を築く久々の天才」と、ある人は評した。また、ある人は「歌にリアリティーがある。いまの若者の無気力さ、むなしさが生々しく出ている」ともいう。
弘毅(72)が、息子(35)の歌壇での活躍を知ったのは、少し前だった。
「驚きました。大したもんですよ」
弘毅は東京出身で、高卒の会社員。妻の喜美子は宮崎出身で、高校中退の専業主婦。
「必死になって子育てしてきたのは家内でした。とにかく教育熱心で……。この姿を知ったら喜ぶでしょうね」
喜美子は1995年6月、突然亡くなった。数年前から「胸がおかしい」と言い出し、国立病院へも何度か検査に行った。だが毎回「どこも悪くない」と言われて帰宅。「腰が痛い」と整形外科に行き、検査入院して5日後に死亡。肺がんが腰骨まで転移していた。
「かけつけた時にはもう意識はなかった。子どもたちに伝えたいことがたくさんあったでしょうけれど……」
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斉藤は翌年に大学を卒業。フリーター生活5年目、図書館で偶然めくった岩波新書「短歌パラダイス」(小林恭二)にひかれ歌の道へ入った。物心がつく前から図書館通いをさせたのは喜美子だった。
3年後、「渡辺のわたし」を出し、一躍、脚光を浴びることになった。
「渡辺」は、母の姓でもある。
〈題名をつけるとすれば無題だが名札を つければ渡辺のわたし〉
(短歌は「渡辺のわたし」から、敬称略・宮坂麻子)