東大卒シングルファーザーの中学受験備忘録

1話 都立高から東大へ

2019.03.19

author
堀 杜夫
Main Image
  • 東大の同級生には「御三家」など私立中高一貫校の出身者が多い
  • 地方は公立伝統校が優勢。東京でも下町は地方と同じ傾向がみられる

はじめに

約4年前に妻と死別した50代の元週刊誌デスクです。2018年に一人娘が中学を受験、第1志望は私たち夫婦の母校の流れをくむ公立中高一貫校でした。受験生に「伴走」した約2年間で、さまざまな発見がありました。自分自身の備忘録として、そしてお子さんの中学受験を考えているパパ・ママの参考になればとも思い、書きためたのがこの連載です。タイトルで「東大卒」を謳(うた)うことは、学歴をひけらかしているようで格好のいいことだとは思いませんが、娘の受験を語るうえで自分の学歴に全く触れないのは不誠実な気もしました。最初の方で自分の経歴と、なぜシングルファーザーになったかという家族の近況に触れておこうと思います。

東大文3へ現役合格

東京の下町で生まれ育った私は、地元の区立小、区立中を出た後、地元では進学校として知られる都立高に進み、東京大学文科3類に現役で進学しました。東大には「進学振り分け」(学内では「進振り進振り東京大学の「リベラル・アーツ教育」の制度。2年生の途中までの成績を元に、3年生からの進学先を決めることができる。入学後、いきなり専門分野にとらわれることなく、興味を持ったことは何でも広く学ぶことができるようになっている。」と呼ばれています)という制度があり、当初2年間は駒場キャンパスの教養学部で学び、その間に3年次に進む専門課程を選びます。ただし、人気の高い学科には、1~2年次の定期試験の成績が抜群によくないと進めません。入学早々、大学新聞の編集に没頭していた私は、まじめに駒場の授業に出ていたとはいえず、高望みはせずに、本郷キャンパスにある文学部の言語学科に進みました。「ニューアカ」ブームで、構造主義の生みの親の一人ともいえるスイスの言語学者、ソシュールが注目されていたことと無関係ではありません。つまりは流行に乗ったということです。なんとか卒論を書いて、4年で卒業しました。当時はバブルの真っただ中でしたから、たいした就職活動もせず新聞社に入社したわけです。

 さて、お気づきでしょうが、私自身は中学受験というものを経験したことがありません。私の知る限り、当時の区立小の同級生200人弱のうち、中学受験をしたのはたったの2人でした。娘が中学受験をすると知った知人たちからは、「やっぱり『御三家御三家東京大学の合格者数を誇る都内の男子私立伝統校「開成」「麻布」「武蔵」の3校。「女子御三家」もあり、「桜蔭(おういん)」「女子学院」「雙葉」の3校。』ですか?」などと聞かれましたが、「御三家」がどの学校を指すかを正確に知ったのは、週刊誌のデスクとして、「大学入試合格者高校ランキング」などの仕事に携わったときですから、たかだか十数年前のことです。子どものころの私にとって、中学受験は全く別世界の出来事でした。

 確かに、東大の同級生には、「御三家」をはじめ、首都圏の有名私立中高の出身者が多数いました。都立高に学校群制度学校群制度入試方法の一つ。いくつかの学校で「群れ」を作り、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける。日本の各地で存在したが、2004年までにすべて廃止された。が導入され、日比谷に代表される「名門校」が凋落(ちょうらく)していくなかで、首都圏で東大合格者を増やしたのが私立の中高一貫校でした。しかし、駒場のクラス(東大の教養課程のクラスは、第2外国語に何を選ぶかで決まります。私はフランス語を選択していました)には、地方の公立高出身者も大勢いました。いまでも、中学受験が盛んな首都圏や近畿・東海圏を除けば、多くの地方で、地域一番の進学校は公立の伝統校というのが普通でしょう。

「ひのえうま」生まれは実験台?

教室

東京の下町も、そうした地方と似たような状況にありました(それは現在もあまり変わっていません)。ですから、中学までは地元の区立校で、高校に入るときに初めて受験する生徒が大多数でした。ちなみに、進学先を選べず悪名高かった都立高の学校群制度は、一つ上の学年を最後に廃止されました。私自身は早生まれでひつじ年ですが、同学年の多くが人口の少ない「ひのえうま」世代に当たるためか、学習指導要領や入試制度の改定の際、しばしば「実験台」にされたという被害妄想を持っています。でも、この改定はラッキーでした。私の学年から、都立高受験でも志望校を選べるようになったのです。

自ら選んで入学した都立の進学校での3年間は、しかし、予想以上にハードな日々でした。数学の授業で、多項式の割り算を黒板でやるよう言われ、わからずに戸惑っていると、激高した教師から蹴りを入れられたこともあります。日々の授業の予習だけでも、毎晩、未明まで机に向かわなければならず、寝不足の日々が続きました。個人情報保護法なんてなかった当時は、中間試験、期末試験の成績ランキングが実名で廊下に貼り出されました。最初に受けた1学期の中間試験は確か約400人中160番台で、中学の試験で90点以下を取った記憶がない私には、大きな衝撃でした。(つづく)

新着記事