ハイスクールラプソディー
「最高の主将」廣瀬俊朗さん 元ラグビー日本代表キャプテンを育てた府立北野高の学び
2019.09.20

ラグビー元日本代表主将で、ドラマ「ノーサイド・ゲーム」での迫真の演技も話題になった廣瀬俊朗さんは、大阪・北野高校出身。エディ・ジョーンズ前ヘッドコーチに「最高の主将」と絶賛されたキャプテンシーの原点は、文武両道を貫きながら自由な雰囲気のなかで過ごした高校時代の経験にありました。
(ひろせ・としあき)1981年生まれ、大阪府出身。大阪府立北野高等学校、慶応義塾大理工学部卒業。5歳のときに始めたラグビーに打ち込み、東芝ブレイブルーパスでは主将として2年連続日本一に導く。日本代表の主将も務め、2015年のワールドカップ・イングランド大会後に現役を引退。さまざまな形でラグビーの魅力を発信し続けている。
文武両道で、先生と生徒が本気で向き合う
――北野高校に進んだのはどうしてですか?
尊敬する祖父が卒業生だったのと、伝統あるラグビー部にひかれたからです。元大阪府知事の橋下徹さんが12年上のラグビー部の先輩で、花園(全国高校ラグビー大会)に出ています。僕も5歳からラグビースクールに通っていたので、憧れました。仲のいい友達が北野を目指していて、「一緒に行きたい」と思ったのも大きかったですね。中1のときの成績は合格には程遠かったですが、目標を持つとがんばれるタイプなので、合格できました。
――どんな高校時代を過ごしましたか?
北野は、進学校のイメージが強いですが、50メートルプールがあったり、縄跳びの二重跳びを20回できないと卒業できなかったり、ほんとうに文武両道なんです。先生は、生徒を大人扱いしてくれました。授業の始まる2分前には、教室の前で待っていて、チャイムが鳴ったらすぐ入ってくるんです。ホームルームもなくて自由だけれど、その分、授業はしっかりやりなさい、と。先生と生徒が本気で向き合っている校風が好きでしたね。
ラグビー部はもう少し強いと思っていたんですが(笑)、先輩たちが部に誇りを持ち、勉強もしっかりしている姿がかっこよくて、「北野に来てよかったな」と思いました。高3のとき、北野は全国大会の予選で早々に負けましたが、僕自身は大阪選抜に選ばれ、国体で優勝。ヨーロッパに遠征する高校日本代表にも選ばれました。

〝猛者〟たちをまとめるコミュニケーション力
――その後、慶応大に進みました。
ラグビー部が創立100周年に向け盛り上がっていたのにひかれ、指定校推薦枠で理工学部を目指しました。枠は一つでしたが、目標に向けて集中して勉強しました。もともと理系で、数学は正解が一つしかないところが好きでした。国語は、作者の気持ちを選ぶ問題で、絶対こっちだと思うのに不正解だと、「ほんまかな?」と納得いかなかったですね(笑)。
ラグビーの強豪校から推薦入学の話もあったのですが、母から「将来をラグビーだけに絞るのは早い」と言われました。高校を選ぶときも同じようなことがあったんです。そもそもラグビーを始めたのは両親の勧めで、僕はいやいやだったんですけどね(笑)。高校も大学も、勉強とラグビー両方に打ち込んだことが今に生きていると思うので、母に感謝しています。
――高校時代には高校日本代表で、社会人では日本代表でキャプテンを務めました。
高校時代は、全国大会にも出ていない公立高の自分が高校日本代表に選ばれるなんて光栄でした。そしてキャプテンになり、正直、大変でしたね。高校日本代表は個性が強い〝猛者〟たちばかり。遠慮して強く言えませんでした。僕を助けたいという仲間もいたんですが、うまくコミュニケーションがとれず、みんなに迷惑をかけたと思います。
日本代表のキャプテンになったときは、みんなが憧れる代表にしようと思いました。そのためにも強くなりたい。ヘッドコーチのエディさんは厳しい人で、練習はハードだし、選手に精神的にもプレッシャーをかけてきました。それで規律を乱す者は試合でも使えないとの考えで、きつかったですね。僕はキャプテンとしてヘッドコーチと選手の間に立ち、コミュニケーションをとりました。そのうち、チームにまとまりが生まれ、強くなり、強豪国にも勝てるようになりました。

僕自身はケガをしたりしてキャプテンから外れ、試合にも出られなくなりましたが、それでもエディさんは僕を代表に呼んでくれました。それは、監督と選手の間に立っていた僕が、チームにとって必要だと判断したからだと思います。僕自身、試合に出られないのはつらいことでしたが、日本代表が好きだったから、試合に出られなくてもやれることがあると、気持ちを切り替えました。
2015年のワールドカップで強豪の南アフリカから歴史的な白星を挙げ、日本に帰ってきたら、すべてが変わっていました。みんなが日本代表に注目し、あこがれて、それまでガラガラだったトップリーグの試合会場も満員になった。日本のラグビーの歴史を変えられた、目標は達成できたと思い、そのシーズン限りで現役を引退しました。
レフリーも観客も、一緒に試合をつくる仲間
――現役引退後は、どんな活動をしていますか?
9月20日に開幕するワールドカップ日本大会に向け、ラグビーの魅力を伝える活動をしてきました。その一つが「スクラムユニゾン」で、僕が発起人となって始めました。世界中からやってくるラグビーファンや選手を、その国の国歌でおもてなしするプロジェクトです。観客が日本だけでなく他の国の歌も歌ったら、何よりのおもてなしになると思い、始めました。2020年の東京五輪・パラリンピックにもつなげたいですね。
この活動は、北野高校での経験がベースにあります。自分の好きなことに打ち込み、常識にとらわれず、だれもやっていないことに挑戦する――北野高校の先輩には、そういう方たちがたくさんいます。僕は、高校時代、勉強とスポーツを大切に磨きながら、「それだけが人生ではない」とも教わりました。だから、今の自分があると思います。
――最近ではテレビドラマ「ノーサイド・ゲーム」に出られました。
福澤克雄監督が慶応ラグビー部の先輩だったのがきっかけです。演技経験はゼロでしたが、演じた「浜畑譲」と僕の人生にシンクロするところがあり、感情移入できました。最近は、街でよく、今までと違うタイプの人が声をかけてくれます。ラグビーは、なじみのない人には溶け込みにくいところがあるのですが(笑)、この番組がラグビーの魅力を広める、めちゃくちゃいい機会になったと感謝しています。

――大学卒業後、違う道に進んでいたとしても、ラグビーは役に立ちましたか?
絶対に役に立ったと思います。ラグビーは、ポジションごとにさまざまな役割があり、いろいろな個性を持った仲間がチームをつくります。日本代表にはいろいろな国籍の人がいて、仲間としてリスペクトし合うし、対戦相手もリスペクトします。レフリーの判定に疑問があっても、声を荒げて抗議したりしません。観客席も応援エリアを分けず、対戦相手のファン同士が隣り合います。敵も味方も、レフリーも観客も、一緒に試合をつくる仲間なんです。そんなラグビーを経験したことは、どんな世界に進んでも役立ちますよ。