ハイスクールラプソディー

ピアニスト・清塚信也さん 桐朋女子高 プロになるしか……不安が練習にかりたてた

2020.04.16

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橋爪 玲子
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ピアニストとしてクラシックの演奏だけではなく、オリジナル曲を作ったり、俳優に挑戦したり、バラエティー番組で軽快なトークを披露したり。活動の幅を広げている清塚信也さん。音楽高校で過ごした高校時代とは?

話を伺った人

清塚信也さん

ピアニスト

(きよづか・しんや)1982年生まれ、東京都出身。桐朋女子高等学校音楽科(共学)卒業後、モスクワ音楽院に留学。10代のころより国内外のコンクールで数々の賞を受賞。ピアニスト、作曲家として活躍中。コンサート「47都道府県ツアー2020『名曲宅配便』~ピアノが奏でる特別な時間~」で全国ツアー中。

コンクール優勝は究極の快楽

――ピアノはいつから始めましたか?

5歳のときです。始めた理由は、母が自分自身の叶えることができなかった夢を姉と僕に託したんです。母は自分がクラシックをやりたかったけれど、親にやらせてもらえなかった。だからずっとクラシックの世界への憧れがあったんです。母のその想いはとても強くて、僕たちに、クラシックの世界で生きていくべきだ、そこに人の幸せがあるとずっと言い続けていました。

――練習は厳しかったですか?

小学4、5年生になると、朝5時に起きて練習をしていました。1日8時間以上は普通で、長いときは12時間も。ピアノ中心の生活だから、学校での勉強は全然ついていけないし、友達もできない。それどころかいじめられるくらいですから、苦しかったです。当時の目標はコンクールで1位になることだったので、家でも過酷な練習ばかり。美談では済まされない状況の中、小学5年生のときに初めてすべてがうまくいってコンクールで優勝できたときは、究極の快楽でした。

撮影/掛祥葉子(朝日新聞出版写真部)
撮影/掛祥葉子(朝日新聞出版写真部)

プロの少なさに危機感を持って

――高校は音楽高校に進学しました。

ピアノはプロになるためにやるものだとずっと母に聞かされていたので、プロになるんだろうなとは漠然と思っていました。中学3年生ぐらいで、プロになるにはどうしたらいいのか、具体的に考え始めました。そこで選んだのが、共学の音楽科のある桐朋女子高等学校です。ピアノととことん向き合える環境だと思ったからです。

入学してわかったことは、15、16歳ぐらいで将来音楽を仕事にすると具体的に考えている人はごくわずかだということでした。僕はそこが違っていた。将来プロとして社会の歯車の一員となって、自分がやっている音楽というものをどのように社会に組み込んでいったらいいのか、つまり職業としてお金をもらうためにはどうしたらいいのかをすごく考えていました。でもその答えがみつからない。一日何時間も練習して、コンクールで1位になることが社会のためになるのかもわかりません。

そうなると不安になるんです。僕にはピアノしかないのに、ピアニストになれなかったら生きていくすべがなくなってしまう。とりあえず生きていける確信がほしくて、その結果練習中毒となっていました。技術を磨けば道が開けるみたいな(笑)。

高校時代の清塚さん(本人提供)
高校時代の清塚さん(本人提供)

学校でも誰も答えを教えてくれませんでした。学校は伝統工芸のように技を磨いていく場であって、技術を習う場所という考えなので、お金を稼ぐというところと結びついていない。そのうえ、そういう考えはどこかタブー視されていました。

僕は、高校生にこそ音楽で就職できる具体例を学べる科目が必要だと思います。実際に当時の仲間でプロになった人は本当にごくわずかです。その席の少なさに危機感をもっと持てよ、と幼馴染や男友達に容赦なく言っていました。でも、アドバイスだと思って言ったつもりが、子どものころからあまり友達と遊んだりすることがない人生だったので、コミュニケーションの仕方が下手だったんでしょうね。結果的にきつい悪口みたいに取られて、すごく嫌がられていたような気がします。

――卒業後はモスクワに音楽留学しましたね?

高校生になっても、母はすごく厳しくて、常に僕が練習しているかを監視している感じでした。そのうえ、先生も厳しい。大人に人生のレールを敷かれていることがすごく嫌になって、なかば逃げ出すようにモスクワの音楽院に留学をしました。

僕は本当にピアノがやりたいのか――。18歳になって初めて自分と向き合う時間がほしいと思いました。

ピアニスト・清塚信也さん

モスクワでの2年間は本当によかったと思います。初めて自分の時間ができて、自由を手に入れた! また僕はモスクワに来て初めて、奨学金ですが、自分のお金というものを手にしました。それまでは遊んじゃうからという理由でおこづかいすらもらったことがありませんでした。しばらくは「ピアノやめたの?」というくらい練習もせず、遊びました。でも3カ月もするとその生活に刺激を感じなくなりました。自由を得て、人とつながるのはとても気持ちがいいことなのですが、それをピアノや音楽を通してできたらこれ以上の幸せはないと思うようになりました。

また、より自分を表現するために、クラシック音楽だけではなく、自分で曲作りをやりたいと強く思いました。

無駄のない努力を心掛ける

――全国で展開中のコンサートで47都道府県の曲を作っているとか?

今年の1月から全国47都道府県を回っています。それぞれの都道府県のみなさんにその都道府県をイメージした曲を作ってコンサート会場で披露しています。いずれ楽譜を出版したいので、即興ではなくてちゃんと楽譜を作って挑んでいます。週末はほとんどコンサートなので、毎週平日に2、3曲を仕上げていきます。とてもスピード感が必要となるのですが、時間活用術は高校生のころに養いました。

クラシック業界では、時間をかけて基本練習することが美徳という感覚があります。基本をいちから全部やるという練習が大切というもの。もちろん子どものころはそれも大事ですが、それをやっていると時間がいくらあっても足りなくなってしまう。だからそういうクラシック業界の常識を取り払って、僕はその時々でどの部分の練習が自分には必要かを見極めて、やみくもに努力するのではなく、無駄のない努力をすることを心掛けるようにしていました。それを身につけたのが高校生のときです。

――昨年の日本武道館コンサートでは中高生にステージで演奏してもらったそうですね。

ピアノを10台以上並べてピアノだけでベートベンの「第九」を演奏しました。ピアニストはプロではなく日本各地にいる中高生たちにお願いしました。僕自身、子どものころコンクールなどの舞台に立って演奏したことは、とても自信になりました。だから、僕と同じような経験を子どもたちにもしてほしかったんです。武道館に自分が立ったんだぞというのが、この先、何かの壁にぶつかったときに突破するためのエンジンになると思うからです。

桐朋女子高等学校 音楽科

学校法人桐朋学園は現在、男子部門、女子部門、音楽部門の三つの学校群から成る。音楽科は1952年に桐朋女子高等学校に男女共学として併設された。桐朋学園大学音楽学部との7年一貫教育を視野に入れた教育課程が組まれている。

【所在地】東京都調布市若葉町1-41-1

【URL】https://www.tohomusic.ac.jp/highschool/

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