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英文学者の阿部公彦・東大教授に聞く「日本人はなぜ長い間、英語を話せないのか」

2020.05.05

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中村 正史
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英語の4技能ばかりが強調されるが、日本人は長い間、なぜ英語をしゃべれないのか。そこから考えるべきだと、英文学者の阿部公彦・東大教授は言う。来年の大学入学共通テストで英語のリーディングとリスニングの配点が大きく変わり、発音問題などがなくなることについても「4技能均等の理念が独り歩きした弊害」と警鐘を鳴らす。(写真は、今年が最後となった大学入試センター試験で、英語リスニング用のICプレーヤーを配布する担当者=代表撮影)

話を伺った人

阿部公彦さん

東京大学文学部教授

(あべ・まさひこ)専門は英米文学、特に詩。文芸評論家でもある。東大文学部卒、同修士課程を経てケンブリッジ大学でPh.D取得。『文学を〈凝視する〉』でサントリー学芸賞。『史上最悪の英語政策』の著書もあり、大学入学共通テストの英語民間試験をめぐっては、反対の立場から発言した。

そもそも日本人が英語を話すのは難しい

――日本には以前からずっとオーラル英語信仰がある、4技能(読む・聞く・話す・書く)幻想がある、と主張されていますね。

「4技能均等」という理念が独り歩きしたのが問題です。確かにかつては、日本の英語学習は読解力中心で偏っていると言われてきました。しかし、この30年、40年は過度なほどに授業でオーラル英語に力を入れようとする傾向が強まり、「コミュニケーション」という言葉も濫用されています。10年くらい前からは英語の授業を英語で行うという、教育現場の実態から乖離した方針が導入され、逆側に針が振れています。それでいて実際の上達には結びついていない。そんななか、安易なオーラル重視によって、語彙(ごい)力も文法理解も不十分、総合的な英語力が落ちたという批判が出てきて、「これからは4技能だ」と言い出した。文法訳読も、コミュニケーション英語もうまくいかないから、それなら「4技能だ」という理屈ですが、これは絵に描いた餅です。授業時間や生徒のモチベーションが変わらなければ、急に「バラ色の英語学習」が訪れるわけがない。現実には「試験を4技能にする(=業者試験導入)」くらいしか新味がない。これでは基礎学力も総合力も身につかないでしょう。

――言語には場面によってその四つの要素が必要と思いますが、確かに4技能という言葉ばかりが強調されています。

英語力を四つの技能に分断して入試で測る必要がどれほどあるのでしょう。そもそも言語能力が四つ均等に身につくとは、どういうことなのかから考える必要がある。たとえ母語であっても言語能力は「均等」には備わっていないです。もう一つの問題は技能という言葉。言語をスキルにすぎないととらえ、点数化できるという思想が背後にあります。これも言語習得の過程をドライに明示的にとらえるという点では意味があるとは思いますが、行き過ぎると、言葉の持っている奥行きと深みをとらえそこねる。言語運用は人間の個性や人格とつながっているので、単にスキルでは割り切れない部分も多いのです。

――日本人はなぜ長い間、英語を話せないのか、ということから考えるべきだと主張されています。

明治以来、もう150年くらいずっとそうなのですから、「しゃべれないのが当たり前」というところから出発すべきでしょう。日本語話者にとって英語を話すのは、さまざまな事情で難しいのです。

理由の一つには、たとえば音の数がある。英語は音の種類が多く、特に子音には日本語話者にはなじみのないものがたくさんあります。大人になればなるほど、言語の「正規の音」以外は抑圧する傾向があるため、英語の音は日本語話者には言語未満の雑音に聞こえてしまうのでしょう。そういう「音」は、自分で発音するのにも抵抗がある。ところが子どもは違う。いろんな奇妙な音を発声して遊ぶことからもわかるように、言語未満の音に対する抵抗がないのが強みです。だから、外国語の上達も早い。

ちなみにオーラルということで言えば、日本語話者にはイタリア語やスペイン語のほうが、上達が早いと言われます。言語によって抵抗感が違うのでしょう。英語は発音が難しいのです。

二つ目はアクセントです。英語は強弱による言い分けが重要ですが、日本語は音の高低による言い分けが重要です。異なるアクセントのシステムを身につけるにはかなりの訓練が必要となる。たとえて言えば、日本語と英語はクロールで泳ぐのと平泳ぎで泳ぐくらいの違いがあります。

――結局は育ちの環境、幼少期の言語環境ですか。

発音などは幼少期のほうが上達は早いです。大人になって身につけようとすると何倍もの労力が必要になるし、向き、不向きも出てくる。

ただ、それならみんなが幼いころから発音の特訓をすべきかというと、それは違うと思います。当然ながら、母語の習得は重要です。またオーラルといっても最終的には内容が大事なので、いくら発音がよくても中途半端で浅い会話しかできなければ言語運用能力が高いとはいえません。

もう一つ意識したいのは、日本語と英語では話し言葉の文法が違うということです。日本語の話し言葉は融通無碍(むげ)のところがあり、行き当たりばったりでも何とかなる。言ってみれば「心に優しい」のです。脱線も許すし、文法の縛りも緩い。だから外国語話者も意外と早く身につける。日本人のグダグダした言い方とか、文章をぶつ切りにしたり、途中でやめたりする言い方とか。

しかし、そういう「心に優しい」仕組みに慣れた人が、もっときっちりやる言語で話そうとすると、つらく感じざるを得ません。

【文中写真1】小学生の英語熱
小学校での英語教科化で、オーラル英語を学ぼうとする動きは加速している

話せるのに書けない?「帰国生問題」は奥深い

――日本人が英語を話せないのは、生活する上で必要ない人が多いこともあるのではないですか。

それが一番大きいです。しゃべる能力は運動能力と同じで、使わないと落ちる。我々のような英語業界の人間でも、日本で生活していれば英語をしゃべらない日が続くことはありますが、ふだん英語と付き合いのない人はなおさらでしょう。こうなると身につけたものを維持するのは難しい。

――今回もそうですが、スピーキング重視は主に産業界から出てきたものです。会社のトップの人たちが「自分たちは英語を長年勉強してきたのに話せない」と。日本で英会話信仰はなぜ強いのでしょうか。

西洋文化への憧れでしょう。日本は植民地化されなかったので、英語が浸透せず、希少価値が生まれ、憧れの象徴ともなっていった。

――大学で英語を教えている知人が、帰国生のなかに、英語は流暢(りゅうちょう)にしゃべるけど、文章を書かせたら文法がひどいとか、内容が全くない学生がいると、昨今のスピーキング重視を嘆いています。

「帰国生問題」は奥が深い。私たちの専攻では卒業論文は英語で書かせますが、幼少期に英語圏で育った学生のなかにはそこそこ流暢に会話ができても書く能力があまり高くなくて、そのギャップの大きさに驚くことがあります。他方で日本語も英語も非常に高い能力を備えている人もいます。何歳で帰国したかによる差も大きい。読み書きの能力はある程度の年齢になって身につくものなので、小さい時に帰って来ると、しゃべれるけど書けないということが起きやすいそうです。日本語・英語の能力バランスにしても、読み書きとオーラルのバランスにしても、千差万別なので、「帰国子女は~だ」と一概に言うのは危険です。

――そういう英語の能力を大学入試、特に50万人規模の共通テストでどう測るかというのは大きな問題ですね。

オーラル英語をテストに出題すれば、一部の帰国生のようにもともと身についている人は軽々と高得点を取るでしょう。努力の量に比してなかなか点数が伸びない人がいる一方、環境のおかげで努力していないのに高得点を取る人がいる。そういうテストを大学入試の場で利用するのが適切なのか、よく考える必要がある。

またオーラル英語の比重を高めれば、明らかに入ってくる学生の質は変わります。外国語学部など、そういう能力を重視する学科があってもいいとは思いますが、すべての学科でオーラル英語の比重を高めることには慎重であるべきでしょう。そもそも日本語ですらしゃべることが苦手という人も、けっこういる。大学での研究に本当に必要なのは何なのか。英会話の能力で差をつけてしまっていいのか、ということです。もしオーラルの能力をテストするとしても、その比率を低くするか、選択制にしてはどうかと思います。

【文中写真2】萩生田会見
萩生田光一文部科学相は昨年11月、大学入学共通テストへの英語民間試験の導入を見送った

発音や語句整序の出題がなくていいのか

――あまり議論になっていませんが、来年の共通テストでは英語の配点が大きく変わり、これまでのリーディング200点、リスニング50点から、リーディング100点、リスニング100点になります。また発音やアクセント、語句整序は出題されなくなります。そうなると、英語の勉強の仕方が大きく変わってくるでしょう。これまでセンター試験でリスニングを課していなかった東大は、リーディング140点、リスニング60点にします。実際には大学で配点を変えていいのですが、大学関係者の中にも100点、100点だと思っている人がけっこういます。

リーディングとリスニングの配点を100点、100点にしたのは、「4技能均等」理念の独り歩きがもたらした典型的な弊害です。なぜ100点、100点なのか、根拠がありません。私は英語学習ではもっとリスニングに力を入れるべきと思っていますが、それと共通テストの配点を100点、100点にするのは別問題です。

リーディングのテストはある程度、洗練度が高く、現実の「読む行為」に近い環境も用意できる。しかし、リスニングのテストはまだまだ発展途上。たとえばゆっくり話される音にじっと耳をすませて一つの言葉を聞き取る、という設定は、私たちが現実に英語の音を聞くときの状況とはかなり異なります。しかし、テストである以上、このような形にしないと、生徒に点数を取らせることができない。もちろん何もしないよりはいいですが、配点が100点となったら受験生はそういう「テスト専用のリスニング」の対策ばかりするでしょう。これでは本来なされるべき訓練がおろそかになりそうです。

リスニングテストを作った経験のある教員ならわかりますが、点数の差をつけるのは難しいのです。ある程度、偶然性などを取り除き、フェアな試験にしようとすると、どうしても易しめの疑似読解テストのようなものになり、実際に試すのは集中力だけ、ということになるかもしれない。それを100点、100点という配点に組み込んでも、受験生の総合的な英語力が測れるとは思えません。4技能分断で英語の力が測れるという思い込みが強すぎるようです。

発音やアクセント、語句整序の問題は意味がないというのもミスリーディングです。語句整序は作文能力の一部を試せるし、やる意味は大きいです。発音やアクセントは、そもそもこのような形ででもやらないと、生徒がほとんど勉強しなくなってしまいます。

本来は英語を四つの技能に分けることばかり考えるのではなく、むしろそれらがどう連携し、融合するかということを考えるべきです。業者試験の導入を正当化するために理屈を後付けするのではなく、長期的な視点で学習方法をとらえ直すべきです。

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