ハイスクールラプソディー

写真家・片山真理さん 群馬県太田市立太田高校 義足に描いた絵が未来をひらいた

2020.05.14

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三島 恵美子
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今年の木村伊兵衛写真賞を受賞した片山真理さんは、先天性の疾患のため9歳のときに両足を切断。10代で、作り続けてきたオブジェとともにセルフポートレートを撮り始めました。高校時代がターニングポイントだったと言います。

話を伺った人

片山真理さん

写真家

(かたやま・まり)1987年、埼玉県生まれ。群馬県育ち。2012年、東京芸術大大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。先天性の疾患により9歳のときに両足を切断。身体をかたどった手縫いのオブジェや立体的作品、装飾を施した義足を使用しセルフポートレートを制作。歌手、モデル、執筆や講演など多方面で活躍中。第45回木村伊兵衛写真賞受賞。

インターネット上に友だちを求めた

――アートとの出会いは?

 最初のアートとの出会いは、思い返せば小さい頃の家族が影響しているかなと思います。私がいま作っているオブジェとか、そういうものも家族の影響が大きくて。子どもの頃からミシンが鳴り響くような家で育っていて、どこかで誰かがミシンを踏んで、母親も祖母もひいおばあちゃんもみんな何かを作っていました。おじいちゃんは警察官でしたが、趣味で俳句や囲碁、水墨画に写真をやっていたり。常に、みんな何か作っていたし、休みの日になると美術館に連れていってもらって常設展をだらだら見るような生活でした。ただ、それをアートや美術と意識してやっていたわけではなくて、生活の中の一部として受け入れていた気がします。私の作品には、オブジェを撮影したものやセルフポートレートがあります。写真の額もかなりデコラティブです。それは完全におじいちゃんに連れていかれた美術館の近代や現代の絵画の影響があると思います。

 ――高校は商業高校だったそうですね。

高校時代は、今の私の一番のターニングポイントだったと思います。私は商業高校出身ですが、商業高校って就職のための学校なので、免許を取るとかプログラミングや簿記などの資格を取るとかが必要で、さらに採用試験に出る小論文も書かないといけません。授業で「こういう時事問題が出たら、こう書きなさい」ってルールがあって。私自身それもやれると思っていましたが、それまでは授業も普通にやれていたのに、その小論文になったとたんに言われたことを言われたようにやることに体が拒否反応を起こしてしまって、一文字も書けなくなってしまったんです。

 書けなければ単位ももらえない、卒業もできなくなっちゃうよって進路指導の先生に言われました。たまたまその進路指導の先生が美術部の顧問で、その時私は美術ではなく簿記部とパソコン部と英語同好会、全然違うものに入っていたのですが、その先生は私が義足に絵を描いていたことをご存じで、「義足の絵について何かテキストを書いてみない? 小論文の練習になるんじゃないかな」ってアドバイスをくれたのです。

片山真理さん高校時代
高校時代の片山さん(本人提供)

当時、私は商業高校の情報科にいたのでプログラミングをずっと勉強していました。学校では友だちがまったくできなかったので、自分でホームページを作って、インターネット上に友だちを求めていました。英語もそれで勉強して海外の人ともやり取りをするようになっていたのですが、ある時、そのホームページを見た日本の専門学校の学生さんから「モデルをやらない?」ってお誘いをもらいました。そうして高校2年生のときに、ファッションショーに出ることになりました。義足に絵を描くようになったのは、その方から提案を受けたことがきっかけです。絵を描いた義足は学校に通うときも履いていました。その義足についての小論文が、たまたま進路指導の先生宛に届いていた群馬青年ビエンナーレという公募展の募集要項にちょうどいいっていうことで応募したところ、奨励賞をいただきました。

 受賞の際に、審査員の東谷隆司さんに「今日から君はアーティストだ」って宣告されて。これがアーティストデビューとなったわけです。義足に絵を描いた時の出会い、進路指導の先生のお誘い、そしてアーティスト宣告。高校での出会いがいまの私の人生をつくっています。

無駄なことが一つもない学生時代

――高校時代の思い出は?

学校生活は恐ろしいほど記憶になくて(笑)。一応通っていたけど、それよりも公募展で知り合った審査員の東谷さんに会いに、作品をリュックに入れて電車で東京まで行ってみてもらったり、ファッションショーに呼んでくれた専門学生(現在は人気スタイリストとして活躍している島田辰哉さん)と東京で遊んだり、そういう方が記憶にありますね。島田さんにいたっては自分と2歳くらいしか年は変わらなかったので、たった2年の違いでこんなに大人になるのか、と。全然違う世界を生きている人がすごく身近にいてくれて、よかった。東谷さんも作品を通してかなり話をすることができました。わかってくれる人がいるんだって。いままではインターネットでしか、得られなかった安心感というものが得られました。大人の人が会って受け入れてくれたというのがすごく嬉しかったです。

片山真理さん1
撮影/小黒冴夏(朝日新聞出版写真部)

――商業高校から大学、さらには大学院に進学しました。

奨励賞を受賞した群馬青年ビエンナーレは、群馬の県立美術館主催の公募展でした。群馬県立女子大学に文学部美学美術史学科というのがあって、ラッキーなことにAO入試で入ったんです。私はセンター入試をしないで大学に入っちゃったというコンプレックスではないのですが、みんなに追いつかないと、という気持ちがあったので、学生時代はめちゃくちゃ本を読みました。まさか自分が写真や美術の道に進むというのは、文学部の美術史に進学しても思っていなかったのですが、美学やるなら全部知っていないといけないって思って写真の本を山ほど読んだんです。そこで、一番影響をうけたスーザン・ソンタグの写真論にたどりつくわけですが、そのむちゃくちゃ読んだ写真の本がいまの写真の活動にもすごく影響を与えている気がします。振り返ると、本当に無駄なことが一つもない。そんな学生時代でしたね。

 制限の中で100%やり切った

――そしてアートの世界に入りました。

 学生って一言でいうと、忙しい。お金とかの制限はあるけど、体力がめちゃくちゃあるので、やれることをやりたいだけやれた時期でした。制限があってもその制限の中で、できるだけのことをやったから、自分が好きなこと、自分が得意なこと、自分のやりたいことというのがわかりました。

 私の場合は、自分のやりたいことは、生活の安定を考えると市役所に勤めることでした。ただ、自分が好きなことは作ること(ファッションとイラスト)、そして自分にとって一番得意なものはアートだったんです。それがわかっただけでも重要な3年間でしたね。それがわかるようになるためには、やっぱり自分でやらないとわからないわけです。うちは貧乏な家庭だったのでアートを極めるための予備校とかそういう特殊な何かはなかったけど、だからこそわかった。たぶんあれもこれもと、なんでも手に入っちゃうとわからない気がします。自分の触れられる範囲以内で100%やり切ったと思えるから、何が自分にとって一番得意なことなのかがわかったんじゃないかなと思います。

片山真理さん2

太田市立太田高等学校

1964年に太田市立商業高等学校として創立。2015年4月1日に校名が改称され、中高一貫校となり、商業科のほかに普通科も設立された。片山さんは改称前の太田市立商業高等学校を卒業。日本で最初に情報科を設置した高等学校でもある。

【所在地】群馬県太田市細谷町1510

【URL】https://www.otacity-hs.com/

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