慶應SFC30年、立命館APU20年――日本の大学をどう変えたか

APU編⑤◆世界に広がる卒業生ネットワークが最大の強み

2020.09.02

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中村 正史
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この30年の日本の大学に大きなインパクトを与えたのは、「大学改革のモデル」と言われた慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)と、学生・教員の半数が外国人という立命館アジア太平洋大学(APU)だろう。奇しくも今年、SFCは30年、APUは20年を迎える。両大学は日本の大学をどう変えたのか、そして現在も開設当初の理念は受け継がれているのか、連載で報告する。
2000年代以降、大学も企業もグローバル化が急速に進み、グローバル教育が求められるようになったが、その先陣を切ったのがAPUである。その後、各大学が国際系の学部を次々に開設し、その動きは今も続いている。その現在とは、そして卒業生たちのその後は――。(写真は、インドネシアの「Fingertalk Café」で、耳の聞こえない従業員たちと一緒に笑顔のディッサさん〈前列左から2人目〉。指の形はFingertalkの文字を手話で表している)

聴覚障害者が手話で働くカフェをインドネシアに開設

卒業生たちの活動の話を続けよう。

2010年に国際経営学部を卒業したディッサ・アーダニサさん(30)は、母国のインドネシアで「Fingertalk」の名前を付けて、耳の聞こえない人たちが働くカフェや洗車場、パン屋などを展開している。米国のオバマ前大統領が設立したオバマ財団のアジア太平洋リーダーの1人に選ばれており、昨年12月にはマレーシアでオバマ夫妻と会った。2016年にASEANサミットがラオスで開かれた際には、大統領だったオバマ氏がスピーチの中でディッサさんの名前を挙げてFingertalkの活動を紹介したこともある。

APUでは会計と金融を学び、社会貢献活動をする学生団体に入って、別府市内の特別支援学校のボランティアなどをしていた。卒業後、オーストラリアの大学院で会計学の修士号を取得し、在学中にインドで3週間、最貧困層の子どもたちに英語と数学を教えながら一緒に生活した。APUでさまざまな言語に触れた影響でスペイン語を勉強したいと思い、ネットで検索してスペイン語圏のニカラグアでNGOが会計士を募集していることを知り、ニカラグアに渡って、貧しい子どもたちに英語を教えていた。週末に立ち寄ったカフェで耳の聞こえない人たちが手話で働いているのを見て、ひらめいた。

「私にはAPUでの経験とボランティアの経験がありましたが、カフェを見た時に『これが自分のやりたいことだ』と思いました」

とはいえ、手話はできないし、資金もなかった。シンガポールに行って銀行アナリストとして働き、資金をためながら、週末に手話を勉強した。

ジャカルタから1時間半離れた街の出身。家の近くにスラムがあり、母親がその子たちのためにフリースクールをつくって、英語や数学を教えていた。子どもの頃から日本のアニメや漫画が好きで、日本に興味を持っていた。進学したジャカルタの高校にAPUのポスターが貼ってあり、日本に行きたがっていた友達と2人でAPUのことを調べ、APUのインドネシアオフィスに電話したのが、縁の始まりだ。

別府市という街は聞いたこともなかったし、山の上にキャンパスがあるので驚いた。大学時代は勉強だけでなく、毎日、いろんな国の友達ができ、多文化に触れられた。別府の人たちも優しかった。

2018年にAPUに再び戻り、大学院博士課程で障害者の人権について学んでいる。ASEANの若手リーダーの交流プログラムで知り合ったインドネシア人の夫(36)もAPUの大学院に在籍しており、弟(20)はAPUの3年生。子どもも昨年、別府市で生まれた。APUと関係の深い一家になった。

「私には大きな夢があります。インドネシアに帰って、障害者差別のない国にするために、政府機関で働いて政治家になり、社会福祉を担当する大臣になりたい。長い道のりですが、Fingertalkの経験もあるし、APUで博士号も取るので、実践と学問を生かして、いい政治家になりたいです」

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