慶應SFC30年、立命館APU20年――日本の大学をどう変えたか

APU編⑦◆APUは立命館大でできないことをする実験の場

2020.09.07

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中村 正史
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この30年の日本の大学に大きなインパクトを与えたのは、「大学改革のモデル」と言われた慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)と、学生・教員の半数が外国人という立命館アジア太平洋大学(APU)だろう。奇しくも今年、SFCは30年、APUは20年を迎える。両大学は日本の大学をどう変えたのか、そして現在も開設当初の理念は受け継がれているのか、連載で報告する。
2000年代以降、大学も企業もグローバル化が急速に進み、グローバル教育が求められるようになったが、その先陣を切ったのがAPUである。その後、各大学が国際系の学部を次々に開設し、その動きは今も続いている。その現在とは、そして卒業生たちのその後は――。(写真は、APUが開学した2000年の入学式であいさつする坂本和一・初代学長)

厳しかったのは開学直前と定員増後の数年間

1990年代に次々に改革を打ち出した立命館大学は、94年にびわこ・くさつキャンパス(滋賀県草津市)を開設して理工学部を移転した直後、大分県の平松守彦知事(当時)から大学誘致の打診を受ける。これを契機に、立命館学園100周年の記念事業として計画されたのがAPUだった。主導したのは、川本八郎理事長(同)と、立命館大学副学長を経てAPU初代学長を務めた坂本和一氏である。坂本氏は語る。

「立命館大学の1学部としてつくるという考えは最初からありませんでした。つくるなら思い切ってやろう、新しく大学として建てようと考えました。これからはアジア太平洋の時代だから、それにふさわしい大学をつくる必要があると川本さんと話しました」

早い段階から浮かんだのが「三つの50」だった。「学生の50%が外国人留学生、教員も50%が外国人、留学生は50カ国・地域以上から」という、いま考えても極めて冒険的な目標である。当初の定員は2学部で各400人。文部省(当時)からは「この規模で留学生が半分なんて立命館にできるのか」などと厳しく指摘された。

「最初は単純な数字でしたが、実現しようとすると膨大なエネルギーが必要でした。しかし、言い出したからにはやるしかなかった。幸いなことに大分県にも立命館にも夢を感じる人がたくさんいて、仕事としてではなく、夢をかけてくれたと思います」

APUの開学時から関わり、立命館大学に戻った後、2014~19年にAPU副学長を務めた今村正治氏は、「厳しかったのは開学直前と、定員を増やした2006年から数年間でした」と振り返る。

「開学前は本当に学生が来てくれるのか、留学生を半分集められるのかわかりませんでした。2006年に定員を400人から1.5倍の600人に増やしましたが、200人の定員増に対応する志願者を集めるのは大変で、しばらくは志願者数、偏差値とも伸び悩んでいました」

上昇気流に転じたのは、連載第3回で触れたように、首都圏で働き始めた卒業生たちの評価が上がっていったことと、東京オフィスにスタッフを常駐させて首都圏の受験生を獲得しようとしたこと、そして何より企業をはじめ日本社会のグローバル化が急速に進み、APUの追い風になったことが大きかった。

東京に常駐し、首都圏戦略を担ってきたAPU東京オフィスの伊藤健志所長はこう話す。

「昼間は高校を回って、夜は塾に行くとか、あらゆることをしました。でも、東京の高校では『生徒の進学先として考えてください』ではダメで、世界の学生はどのレベルにいるとか、今の英語力では太刀打ちできないとか、APUが世界の学生と蓄積してきた知的リソースを伝えないと、共感は得られません。今は高校を訪問しても、入試の説明はほとんどしません。それがうちの役割だと思っています」

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