ハイスクールラプソディー

映画監督・石井裕也さん 川越東高 「ゆがみの局地」で見つけた映画の可能性

2020.11.12

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中村 千晶
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「舟を編む」「町田くんの世界」、そして公開中の「生きちゃった」など数々の話題作で知られる映画監督の石井裕也さん。大学の卒業制作で注目され、20代から活躍を続けています。初のエッセー集「映画演出・個人的研究課題」(朝日新聞出版)にも赤裸々に描いた10代を、振り返ります。

映画監督・石井裕也さん

話を聞いた人

石井裕也さん

映画監督

いしい・ゆうや/1983年、埼玉県出身。川越東高等学校出身。2005年、大阪芸術大芸術学部映像学科の卒業制作として「剥き出しにっぽん」を監督。「川の底からこんにちは」(09年)、「舟を編む」(13年)、「ぼくたちの家族」(14年)、「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(17年)、「町田くんの世界」(19年)など多彩な作品を生み出している。著書にエッセー集「映画演出・個人的研究課題」(朝日新聞出版)がある。

ねじれていた10代

――埼玉県のご出身です。どんな子ども時代でしたか?

僕は小学1年のときに母親をガンで亡くしているんです。母は僕が生まれたときに1度ガンになっているので、僕は0歳から1歳まで、親戚に育てられました。人格の「核」のようなものを形成する幼少期に、ちょっと特殊な状況を体験した。その影響はいま振り返るとかなり大きかったなと感じています。

でも当時はそんなことは考えず、祖父母に育てられながら、小学校時代は割と活発に過ごしていました。サッカーをやっていて、勉強もそつなくできるガキ大将のような感じ。でも、どこかで「母親の死」という自分の触れられたくない部分を、必死で隠していたんだと思います。変に人の上に立とうするようなところがあって、かなりねじれていました。

――エッセーによると、10代はかなり暗黒時代だったとか。

まあ一般に中学生って、みんな頭おかしいと思うんですけど(笑)、いま客観的にみても、やっぱり自分は人よりねじれていたと思います。「無邪気な反抗」というより、もっといやらしい、大人がいやがるような反抗の仕方をしていました。小学生までは、そういう黒い部分を隠せていたんだと思います。でも中学で異性を意識したりするようになって、だんだん隠せなくなってきた。

それに中学1年のときにサッカーをやめたんです。それまでは運動することでリズムを作っていたのが、できなくなった。家にいるのもいやで、友達と外で遊んでばかりいました。ただ勉強は普通にできていて、サッカーの代わりに本を読むようになったり、映画を見るようになったりもしました。

映画監督・石井裕也さん
写真/松永卓也(朝日新聞出版写真部)

――当時の思いを書き溜めたノートがあるそうですね。

大学ノートで数十冊、スケッチブックが二十冊以上あります。いまとなっては笑えないグロテスクな絵や、映画や小説のアイデアを書いたりしていました。そういうことでモヤモヤを発散していたんだと思います。残念ながらいま見てもほとんどのアイデアは使えませんが、「けっこう自分の本質が表れている」と思うこともあります。

中学のとき大人びた友達がいて、彼が星新一さんを教えてくれたんです。そして筒井康隆さんを読み始めた。いまも憧れの人ですが、筒井さんの読書日記から筒井さんが好きな本や映画を知り、それをどんどん吸収する、という感じでした。

映画はBSの映画チャンネルを片っ端から見ていました。ヨーロッパの上質な映画や、チャップリンの作品が多かったですね。中学のときに見た「マイ・フレンド・フォーエバー」という映画は、すごく心に残っています。

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