一色清の「このニュースって何?」
文化庁が京都に移転 → 首都移転の話はどうなった?
2023.03.31

日々のニュースの中に「学び」のきっかけがあります。新聞を読みながら、テレビを見ながら、食卓やリビングでどう話しかけたら、わが子の知的好奇心にスイッチが入るでしょうか。ジャーナリストの一色清さんが毎週、保護者にヒントを教えます。(写真は、文化庁京都庁舎の除幕をする都倉俊一文化庁長官〈左から3人目〉ら=3月27日、京都市上京区、筋野健太撮影)
「遷都論」から「首都機能移転論」へ
文化庁が3月27日、京都に移転し、都倉俊一長官らが業務を開始しました。文化庁の京都移転は、安倍晋三政権が掲げた中央省庁の地方移転の目玉でした。ただ、文化庁の中で京都に移るのは6部署で、7部署は東京に残ります。文化庁以外で地方移転が実現した中央省庁には、消費者庁(徳島)と総務省統計局(和歌山)がありますが、これらも役所の一部が移ったのにすぎません。
中央省庁の地方移転には、議論の長い流れがあります。20世紀には東京一極集中が様々なひずみを生んでいるとして、首都を別の場所に移そうという「遷都論」が出ました。それが首都は東京のままで首都機能を移す「首都機能移転論」につながって盛り上がり、国会では「国会等の移転に関する法律」までできました。しかし、この長い議論は結局、文化庁、消費者庁、総務省統計局の一部が地方に移転して一件落着となりそうです。「大山鳴動して鼠(ねずみ)一匹」ということわざが頭に浮かびます。
遷都から始まった大議論がしぼんでいく過程を見ると、20世紀終盤からここまでの日本経済の浮沈がわかりますので、経過をみてみましょう。
江戸時代は江戸(今の東京)に幕府があり、実際の政治は江戸でおこなわれていました。しかし、天皇は京都にいたので、首都がふたつある形でした。明治維新のころの1869年に天皇が江戸に移り、東の京という意味で東京と改名しました。これで明治以降の日本の首都は東京とはっきりしました。
その後、日本は東京を中心に発展してきましたが、遷都論が盛り上がったのはバブル景気(1987~91年)の時でした。人やお金が東京に集まり、東京一極集中が目立つようになりました。東京の地価はうなぎのぼりに上がり、90年の商業地の地価は83年の7倍にもなりました。東京23区の地価でアメリカ全土が買えるという計算が話題になったほどです。
こうした異常な状況はよくないと思う人は少なくなく、首都を東京から移すことで東京一極集中を改めようという意見が目立つようになりました。特に京都の政界や財界からは「天皇陛下に京都にお戻りになってもらおう」という声が出ていました。
ただ、天皇の居住地についての議論に過敏になる人もいて、問題は遷都論から国会議事堂の移転論に移ってきました。国会が移れば、中央省庁や最高裁判所などの司法機能も移り、それに応じて企業の一部も移るだろうということです。つまり首都機能を移転させるということです。
国会議員にも賛同者が多く、90年には衆参両院で「国会移転の決議」がおこなわれました。そして、92年には「国会等の移転に関する法律(国会等移転法)」が成立しました。
99年には、国会等移転法に基づき、国会等移転審議会が移転先の候補地を挙げました。最有力候補は、「栃木・福島地域」でした。東京から遠くなく、広大な国公有地や福島空港があったりすることが利点でした。次の候補地は「岐阜・愛知地域」で、日本の地理的中心に近いことなどが利点でした。さらに「三重・畿央地域」も可能性があるとして挙げられました。
そのうえで2003年には、国会に設置された「国会等の移転に関する特別委員会」の中間報告が出されました。そのまとめでは「過去12年間にわたる論議を通じ、一部会派及び一部の委員には移転に慎重な意見があったものの、委員会の大半の意見は終始一貫して国会等の移転の意義・重要性を強く訴え、『移転を実施すべし』とするものであった」と書きました。
しかし、国会での国会移転議論はこれが最後でした。代わって出てきたのが、中央省庁の一部移転です。安倍政権時の14~16年に地方創生という掛け声のもと、文化庁、消費者庁、総務省統計局の一部を地方に移すことが決まりました。この三つの省庁に続くところは今のところありません。