ロシアの古都、サンクトペテルブルクに18世紀から息づくマリインスキー歌劇場。その世界屈指の楽団と合唱団が11、12月、「チャイコフスキー・フェスティヴァル2019」と銘打ち来日公演を行う。オペラ「スペードの女王」に「マゼッパ」、交響曲、協奏曲など、楽聖チャイコフスキーが手がけた多彩な名作の数々を披露。芸術総監督のワレリー・ゲルギエフ率いる夢の饗宴(きょうえん)が始まる。(山本悠理)

 来日公演で上演される「スペードの女王」と「マゼッパ」を白夜の6月、マリインスキー劇場で見た。

 「スペードの女王」はチャイコフスキー最晩年の傑作。1890年に同劇場で初演された。トランプのカードに魅入られた男の末路をつづる奇妙な物語。幕が上がると、舞台上に設置された柱が暗闇の中で揺れ動く。演出のアレクセイ・ステパニュクによる仕掛けが、冒頭から不穏な展開を予感させる。

 青年士官ゲルマンは、思いを寄せるリーザを手に入れるため、彼女の祖母が知る「三枚の勝ち札」の秘密を聞き出そうとする。それは成功裏に終わるが、もはやゲルマンの頭の中にはカードのことしかないと悟ったリーザは、絶望に陥れられる。その後も連鎖するようにつづく悲劇は、最後にカードを引き誤り、賭けに敗れた青年の絶叫によって閉じられる。リーザへの愛か、それともカードへの執着か――。複雑な感情の起伏を表現するゲルマン役のテノール、ミハイル・ヴェクアは「彼の胸の中で起きた、雷よりも大きな葛藤を演じ尽くしたい」と語る。後に残る散乱したカードの沈黙が、虚無感を際立たせる。

 リーザの婚約者役を演じるバリトンのロマン・ブルデンコは「この作品には正と負の多くの感情の対比がある」。舞踏会の喧噪(けんそう)が去った後の孤独、愛の誓いに背く裏切り。単なる奇譚(きたん)にとどまらず、人間の心の襞(ひだ)を豊かな声の響きが浮き彫りにする。

 夜の冷たい叙情に満ちた「スペードの女王」とは対照的に、老人と少女の破滅的な恋を描く「マゼッパ」は血煙の立つ壮大な叙事詩だ。舞台は18世紀初頭のウクライナ。元首マゼッパは地主コチュベイの娘マリアと愛し合う。親子以上に年の離れた2人の結婚に両親は猛反対するが、娘はマゼッパと共に去る。これから我が身にふりかかる不幸を知りもせずに――。

 マゼッパは一見、破綻(はたん)した人物のように映る。妻であるマリアの父親を獄につないで拷問した上に、彼女の前で処刑し、さらにロシア皇帝への謀反も企てる。だが、マゼッパを演じるバリトンのウラディスラフ・スリムスキーは「実は、彼の中では愛の力が何よりも大きい。権力闘争に明け暮れるのではなく、マリアへの愛ゆえに苦悩する姿を演じたい」と語る。

 印象的だったのは、ソプラノのマリア・バヤンキナ演じるヒロインのマリア。最後の場面、彼女は発狂し、ガラス片のように細い光を湛(たた)えた子守歌を歌いながら、恍惚(こうこつ)としてほほ笑む。「自然に笑みを浮かべるようにしています。泣き叫んだりするよりも、ずっとこの方が恐ろしいと思うから」。来日公演は、演奏会形式での上演となる。

 ゲルギエフが振るう熟練のタクトが、究極のドラマを味わう贅沢(ぜいたく)な体験へと私たちを誘ってくれるはずだ。

 ■私が求める音、手の中に ゲルギエフ芸術総監督

 8月、東京都内で記者会見を行ったゲルギエフ芸術総監督は、今回の来日公演のプログラムについてこう語った。

 「有名な曲から日ごろ聴く機会の少ないものまで、チャイコフスキーの初期から晩年を網羅する構成にした。彼の音楽の作り方がいかに変化していったか、若い頃の作品と後期の円熟に達したものを比べながら、多くの発見をしてもらえればと思う」

 「スペードの女王」に話が及ぶと「外見上の壮大さだけではなく、歌手による内面の描写の深いところまで楽しんでもらえるはずだ」と自信を見せた。

 日本ではあまりなじみがなく、今回が初演となる「マゼッパ」に関しては「演じるにはかなりの技術とドラマチックな声量を必要とするため、上演機会は多くない。だが、疑いようもない名作の一つだ。以前から、やりたくて仕方がなかった」と語った。

 前身のキーロフを含め、劇場の責任者となってから30年余りが経つ。「長年、自らの責任のもとでオーケストラを鍛え続けてきた。マリインスキーには最高のアーティストがそろっている。今、私の求める一流のレベルの音が、間違いなくこの手の中にあると証明できる」

 ■五嶋龍や辻井伸行、実力派ソリストも

 オーケストラコンサートでは、チャイコフスキーが生涯をかけて創作に取り組んだ交響曲6曲を、3日間(4回)にわたって演奏する。ピアノ、バイオリン、チェロのための作品も5曲奏でられる。

 ソリストを務めるのは、数々の国際コンクールで実績を残す気鋭のチェロ奏者アレクサンドル・ブズロフと、今を時めくダニール・トリフォノフの師であるアルメニア出身のピアニスト、セルゲイ・ババヤン。日本からバイオリニストの五嶋龍と、ゲルギエフが「音楽界における奇跡的な存在の一人」と信頼を寄せるピアニストの辻井伸行も登場する。

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