わたしと星野道夫さん
星野道夫を愛した人たちのインタビュー記事を連載します。
執筆:朝日新聞社
第3回
宙先(そらさき)案内人、高橋真理子さん

たかはし・まりこ 1970年、埼玉県出身。
97年に山梨県立科学館準備室に入り、翌年から科学館天文担当。2001年に、星野道夫さんを主人公にしたプラネタリウム番組「オーロラストーリー」を制作。2013年に独立、移動プラネタリウムや公演で全国を飛び回る。9月18日にFM FUJIでオンエアされる特別番組「継いでゆくもの―星野道夫のメッセージ」のプロデューサーをつとめる。星野さんとの出会いからこれまでの人生と仕事を振り返った「人はなぜ星を見上げるのか―星と人をつなぐ仕事」(新日本出版)をこの8月に出した。

すべての始まりは高校生3年生のとき。
新聞の折り込み広告の冊子にあった、星野道夫さんとオーロラ研究の第一人者である赤祖父俊一先生がたき火を前にして、アラスカの自然やオーロラの神秘について語りあっている4ページの記事でした。
なんとなく北の大地に憧れていた私は、「オーロラって、アラスカっていいな」と思いました。当時の赤祖父先生の肩書がアラスカ大学・地球物理学研究所の所長だったことから、地球物理学科があった北海道大学へ進学して、オーロラの研究者を志しました。
入学して間もない頃、母が「アラスカ 光と風」(福音館日曜日文庫)を送ってくれました。星野さんのアラスカへの熱い思いにふれて、それからの私は寝てもさめてもアラスカのことばかり。ついには星野さんに「アラスカに行きたい」と手紙を出しました。
20歳になって間もないとき、私は初めてアラスカにいきました。当時の星野さんはアラスカ・フェアバンクス在住の日本人から母親のように慕われていた西山周子さんの自宅の近くの、小さなキャビンで暮らしていました。私は西山さんのお宅に滞在したのですが、星野さんは毎晩西山さんのお宅でご飯を食べたり、お風呂に入りにきたりしていて、私にいろいろな話をしてくれました。

星野さんと学生時代の高橋さん
星野さんは忙しいそぶりは全くみせず、本当に親切でした。私がオーロラをみるためにアラスカに来たのに、全く見られていないことを心配して気遣ってくれました。オーロラが出そうな晩、星野さんが車で郊外に連れ出してくれました。
「今日のオーロラは本当にすごかったよ、こんなにすごいのはそうそうみられないよ」と大げさにいってくれました。今思うとそれほどでもないオーロラだったと思うのですが(笑)。初めてオーロラをみる私を励ましてくれたのでしょう。星野さんは、当時の私にとっては雲の上の存在だった赤祖父先生に会う約束までとりつけてくれました。
その後、私はオーロラの研究を進め、大学院の博士課程にいったのですが、徐々に自分が何をやりたかったのかわからなくなりました。オーロラの中を流れる電流を計算することと、自身の人生の意味を重ねることができなかったのです。人間関係にも悩み、自信を失い、どん底にいたとき、星野さんがカムチャッカで亡くなったというニュースが舞い込んできたのです。
しばらくずっと星野さんの写真集や本を読み返し、涙が止まりませんでした。どうしてよいか答えが見つからなかったので、アラスカに行って考えようと思い、その年の9月にフェアバンクスに向かい、現地の人たちが星野さんために開いたメモリアルパーティーにも参加しました。彼への愛情にあふれる素晴らしい会でした。

星野さんから高橋さんに宛てられた手紙
帰りの飛行機の中で、星野さんが「現代の科学は世界と人間とのつながりを語ってくれない」と「アークティック・オデッセイ」(新潮社)の中で語っていることに目がとまり、「まさにこれは今の私のことだ」と感じました。星野さんが自然と人間の関わりを探ったように、私は科学と社会の関わりを探りたい。同時に、「いつかミュージアムをつくりたい」と思っていた自分を思い出しました。全国の科学館に手紙を書き、山梨県でプラネタリウムを備えた新しい科学館が出来ることを知り、そこに就職することができました。人の顔が見える、市民に愛されるプラネタリウムを目指して、運営に関わりました。
2001年には星野さんを主人公にしたプラネタリウム番組「オーロラストーリー」を制作しました。極寒の中、星野さんがマッキンレー山にかかるオーロラを1か月待ち続け、最後に壮大なオーロラに出会う話を軸にしながら、オーロラの科学と神話の両方からアプローチした物語です。クライマックスは全天を覆うオーロラが現れるのですが、それを見るたび、星野さんが会いにきてくれたように感じたものです。話題となり、星野さんを慕う人たちが全国から見に来てくださいました。また、星野さんが子供たちにアラスカの自然を体験させるために立ち上げた「オーロラクラブ」の10周年記念イベントを科学館でやらせていただき、赤祖父先生をお招きしました。「アラスカにきたのを覚えているよ。いい仕事をしたね。」と言われ、感無量でした。
その後も、星野さんをキーワードに素晴らしい人たちに出会ってきました。そのうち、ホンモノの星空を見られない人たちにこそ、プラネタリウムは意味があるのでは、と思うようになり、3年前に科学館の正規職員を辞し、病院などでの移動プラネタリウムや、宇宙と音楽のコラボレ公演をする仕事にシフトしています。星野さんが亡くなった43歳を機に「星つむぎの村」という団体も立ち上げ、星を介して人をつなぎ、ともに幸せを生み出せるような活動をしています。星野さんもゆかりの深かった八ヶ岳が拠点です。

高橋さんの日記
「かけがえのない者の死は、多くの場合、残された者にあるパワーを与えていく」というご自身の言葉通り、星野さんは、今もなお生き続けているように感じます。「星をみる」ことの根源的な意味を、この20年ずっと問い続けてきましたが、いつもそばに星野さんがいました。それらを、8月に出した、初めての自著「人はなぜ星を見上げるのか―星と人をつなぐ仕事」にまとめました。
今年は星野さんが亡くなって20年。ローカルラジオ局のFM FUJIで特別番組をつくらせてもらいました。「あなたにとっての『星野道夫 この一文』」を一般に募ったところ、10代から60代まで幅広い世代からメッセージが届きました。それらのメッセージを9月18日にオンエアします。星野さんの奥さまの直子さんにもご出演いただき、未公開の星野さんのインタビューも流します。