わたしと星野道夫さん
星野道夫を愛した人たちのインタビュー記事を連載します。
執筆:朝日新聞社
第4回
新開俊郎さん 「オーロラクラブ」代表

子供たちにカメラを向ける星野道夫さん
星野は大学時代の後輩です。星野から「アラスカ大学へ入学して以来、カリブーの季節移動などの撮影に取り組んでいる」ときいたときは、同じ探検部の仲間としてワクワクする思いがありました。91年に学生時代の仲間と一緒にアラスカを訪ねたとき、星野から「子供たちに冬のアラスカを体験させてあげたい」と提案がありました。驚きましたが、面白そうだと思い「やろう」と即答しました。探検部の仲間たちを中心にカンパを募って、テントや防寒具などを買い集めて、1992年に「オーロラクラブ」のアラスカ・キャンプ第一回目を始めました。
「子どもの頃に見た風景が、ずっと心の中に残ることがあります。ルース氷河で見た壮大な自然が、そんな心の風景になってくれたらと願います。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり、勇気を与えられたりすることがきっとあるような気がするからです。(星野道夫、オーロラクラブの文集「あらすか」から)」

料理に励む星野道夫さん
主なキャンプ地になったルース氷河は、星野がオーロラの撮影で訪れていた場所です。ときにはマイナス30度を超える寒さになる雪と氷、岩だけの壮大で無機質な山の世界です。標高は1700メートルもあり、隔絶された世界に山小屋がぽつんとあるだけです。
ときには外にテントを張って過ごし、雪を溶かして水を作り、氷河をスキーでトレッキングして、夜になるとオーロラを見ます。テレビなどの情報から離れて、日常生活では決してできない経験がたくさんあります。キャンプの初日は引っ込み思案で体力がなかった子がわずか数日間の間でみるみるうちに活発になったり、いじめられっ子だった子がキャンプ生活で自信を取り戻したりして、子供たちの成長はめざましいなと毎度感じています。
天候が悪く、ルース氷河に入れない年もありました。
「山は目の前にあるのに、どうしようもありませんでした。しかしアラスカではこんなことはあたりまえのことなのです。そんな時、人々はこんなふうに言います。
“Mother nature runs a show in Alaska, not us. “
(アラスカでは、人間ではなく、マザーネーチャーがドラマを勧めてゆく)
予定通りに事が運べばそれは幸運だったわけで、そうでなければ、悪い状況の中で新しい最善の方法を見つけなければなりません。つまり自然は物事がうまく進めないことを教えてくれます(同上)」

オーロラクラブのキャンプでカレーをほおばる星野道夫さん
この年はルース氷河には入れませんでしたが、米国本土からアラスカにやってきて原野で暮らすマイク一家と知りあうことができました。
96年、5回目のキャンプを負えた星野は、取材コーディネート先のカムチャツカでヒグマに襲われるという予期せぬ事故で亡くなりました。アラスカの生きものだけでなく、そこで暮らす人々、自然に根ざした文化や歴史にテーマが移ってきた矢先の出来事。とても残念でした。
亡くなった知らせをきいた後、オーロラクラブの発起人で、慶応大探検部の後輩である伊藤英明、米国人のダニエル・ドォール、私は星野が拠点にしていたフェアバンクスに集まりました。「ようやく軌道に乗ったのだし、せっかくだから我々だけでもやっていこう、それが星野の遺志だ」と話しあい続けてきました。
「氷河のような厳しい環境の中で、万が一何かあったときのために役に立ちたい」と医者になった子や、「誰かを助けたい」と警察官になった子もいます。その後の子供たちの成長ぶりをきくのも楽しみです。大人になった子供たちはクラブの運営を手伝ってくれるようになり、数年前からは現地のキャンプを任せるようになりました。今年はキャンプ開催の20回目となった記念すべき年でした。今回は天候不順に見舞われて、当初予定していたルース氷河から、別の氷河に変更となりましたが、7人の参加メンバーはアイスクライミングやキャンプを楽しみました。
オーロラクラブで「子供たちのアラスカキャンプ」を始めて25年、この壮大な計画を打ち出した星野が亡くなって20年という年月があっという間に過ぎました。「継続は力なり」と応援してくれてきた多くの人たちがいます。星野の人柄と遺志に魅かれ、「無理なく、やれるところまでやろう」を合言葉に、困難を乗り越え続けるつもりです。

1996年のオーロラクラブのキャンプ。星野道夫さん(2列目 右から1番目)が参加した最後のキャンプとなった。
ルース氷河でマッキンレー山(デナリ)を背景に
※写真はすべてオーロラクラブ提供