東日本大震災復興フェア おいしい支援は続くよいつまでも。 東日本大震災復興フェア おいしい支援は続くよいつまでも。

「おいしい社会貢献」って、あると思う。だから、初めて企画してみた。岩手、宮城、福島県を回って、うまいものを見つけてきた。食べてみてほしい。メーカーを訪ねて歩いたが、被災したメーカーもみんな前を向いていた。食べ物の作り手の知恵と誇りがあった。買えば、被災地のメーカーや生産者にお金が落ちる。たくさん買って、味わってほしい。さらに、私たちは、売上の一部を被災3県が設ける子どもたちの進学や生活支援に寄付することにした。あの震災で両親、あるいは片親を亡くした子どもたちは1778人にものぼる。子どもたちが描く将来の夢。その夢の復興のお手伝いをみなさんとともにしたい。

子どもたちの進学を支援

宮城県のホームページより抜粋
宮城県のみやぎこども育英募金ホームページより抜粋

東日本大震災で両親を亡くしたお子さんは、岩手、宮城、福島の3県で計241人。震災でひとり親になったお子さんは3県で計1537人。合わせて1778人にものぼります(2015年厚生労働省調べ)。

こうしたお子さんたちの進学や生活を支援しようと、岩手県は「いわての学び希望基金」、宮城県は「東日本大震災みやぎこども育英募金」、福島県は「東日本大震災ふくしまこども寄附金」を設置して、寄付金を募っています。

今回、朝日新聞SHOPでは売上の一部を3県の窓口に寄付いたします。子どもたちが希望の進路を選べて、社会人になるまで、息の長い応援が必要です。ぜひご協力ください。

〈寄付先〉
いわての学び希望基金
東日本大震災みやぎこども育英募金
東日本大震災ふくしまこども寄附金

※なお、寄付金額については、朝日新聞SHOPのホームページ上でご報告いたします。

宮城県のみやぎこども育英募金ホームページより抜粋

〈本フェアご賛同企業〉
東京ガス株式会社株式会社日比谷花壇(五十音順)
※復興フェアご賛同企業の3.11における活動をご紹介します。

もう8年? まだ8年? 岩手を訪ねて

「ただいまー」「おかえりー。寒かったでしょう」。1月下旬の夕方、冷たい風に身も震える盛岡市内。帰って来た若者は暖房の前に手をかざし、ほっとした表情を浮かべた。

私が訪ねたのは「しぇあハート村 復興支援学生シェアハウス」。県内の、主に沿岸の被災地から盛岡市内の学校に通う学生たちがともに暮らす家賃無料の住宅だ。

震災から8年。いま、ここを住まいに、10人の若者が市内の大学や専門学校に通う。当時、釜石市の小学6年生だった和田一希さん(20)は盛岡市内のリハビリテーションの専門学校の2年生だ。母を津波で亡くした。岩手県が運営する「いわての学び希望基金」を利用して教育費の援助を受け、家賃無料のこのシェアハウスに入った。「基金やこの家がなかったら進学できなかったかも」という。

大学生の佐々木希さん、専門学校生の和田一希さん、「お世話係」の岡垣亮我さん
大学生の佐々木希さん、専門学校生の和田一希さん、「お世話係」の岡垣亮我さん(左から)

震災で両親や片親を亡くした子どもは、岩手、宮城、福島3県で計1700人を超える。それから8年。当時、小学1年生は今年、中学3年。4年生は高校3年生だ。同じシェアハウスに住み、岩手大学教育学部に通う佐々木希さん(20)も釜石市出身。家族は無事だったが、新築したばかりの自宅が津波で流され、仮設住宅で暮らしてきた。別の奨学金を利用しているが進学費用のためにアルバイトもしている。

学生のお世話係の岡垣亮我さん(27)は「普段の生活の悩みや困りごとはできるだけ相談にのってる」と話す。ただ、震災当時のことは、本人が話さない限り、聞かないようにしている。

男子棟の入寮生たち(しぇあハート村提供)
男子棟の入寮生たち(しぇあハート村提供)

シェアハウスでは今年度、「地域食堂」というイベントを2カ月に1度開催している。周辺の住民たちと、一緒に料理を作って一緒に食べるのだ。こうした「交流」を、とても大切にしている。

専門学校に通う和田さんに「作業療法士という福祉分野を目指すのは、訪問介護の仕事をしていたお母さんの影響かな」と聞いてみると、少し顔を赤らめて、「そうかもしれません」とうなづいた。和田さんも、佐々木さんも将来は釜石に戻って、仕事をしたという。

しぇあハート村の夏祭り

来年も、再来年も、その次の年も……。少なくとも、あと8年は親を失った子どもたちが進学を迎えることになる。2人に聞いてみた。「もう8年、それとも、まだ8年?」、異口同音に「もう、かなあ」と答えた。地元での避難所や仮設住での暮らし。あまりにもめまぐるしい8年だったのだから、そうなのかもしれない。

いまも、沿岸地域を中心に復興のダンプカーの往来が激しい。復興というとインフラ整備のイメージが強い。だが、震災当時、小さかった子どもたちも、毎年、高校や大学への進学時期を迎える。震災前、子どもたちは将来の夢をどう描いていたのだろう。震災で親を亡くし、経済的にも困難になった子どもたち。私たちができるのは、「将来の夢」の復興支援ではないだろうか。そう考えると、「まだ、8年」でしかないと思った。(朝日新聞SHOP・浅野真/2019年1月取材)

地域の子供の相手をする入寮生
(しぇあハート村提供)

岩手県

《震災・あのとき 岩手県》

「海宝漬」でしられる「中村家」(釜石市)は津波被害にあい、冷凍してあったウニや鮑が流された。だが、市中の海面に浮く高級食材はパック入りだったため、被災者たちの支援食につながったという。東和食品(宮古市)は「さらさらこんぶ」に使う地元の特注昆布が津波で流された。一からやり直しでようやく、生産にこぎつけた。大槌町では震災後、東京から移住したエンジニアが地元の人たちと、大ぶりさが自慢の牡蛎を使った「燻製」を発売。「おいしいものがある町」にしたいと意気込む。「ぶっとべウインナー」を考案したのは二戸市の若手料理人の会。震災時は鍋釜もって、三陸に炊き出しに向かった。

宮城県

《震災・あのとき 宮城県》

笹かまぼこの「ささ圭」(名取市)は、津波で工場が全壊し、亡くなった社員もいた。しかし、先代が使っていた石臼で魚をすり身にし、昔ながらの手焼きを復活させ、「希望」という商品名をつけた。「ヤママサ」(塩釜市)は地震で工場が半壊。冷凍庫にあった出荷前のタラの身を病院に送って煮魚にして食べてもらった。「調理済みの大切さを感じた」というのが、「煮魚・ごはん個食セット」の開発につながった。「金華黄金しめさば」の「和久魚問屋」(石巻市)は目の前が港。津波でオフィスも流された。牛タンの「陣中」(仙台市)も工場が被災。それでも、在庫の牛タンを焼いて弁当にし、被災者に無料で配った。

福島県

《震災・あのとき 福島県》

原発事故が起きた浜通り。いわき市の食堂「くさの根」は津波や原発事故に翻弄され続けてきた中で、郷土食をベースにした「うにとほっき貝の炊き込みご飯の素」を売り出した。同じいわき市の「海幸」は魚の卸会社。放射能の影響で、長い間、魚の水揚げがなかった。こちらも漁師料理「あんこうのどぶ汁」を食べやすく改良。復興と「海の恵み」への感謝から生まれた逸品だ。フルーツ王国の福島。「のむもも」(福島市)は風評被害に悩む園主の起死回生の知恵から生まれた。「あんぼ柿パウンド」(福島市)は、30代の女性パティシエが、実家でつくるあんぼ柿にヒントを得て生み出した。会津若松市の米も、「復興」を旗印に2018年に登場したばかりの新ブランド米だ。

復興フェアご賛同企業の
3.11における活動をご紹介します。

東京ガスと日比谷花壇は、社内ネットなどを通じて社員の皆さんに「復興フェア」をご案内いただきました。
被災地への支援を続ける各社の活動を紹介します。

あのとき、東京ガスは……

「ガス会社の使命、というのを改めて実感させられました」。東京ガス総合企画部の山田俊彦さん(46)は8年前の東日本大震災をこう振り返る。

当時は都市ガス事業者でつくる「日本ガス協会」に広報担当として出向中だった。仙台市の中心部ではに、ガス管の被害、港ちかくの工場が津波で冠水して、都市ガスの供給が全面的にストップした。仙台市ガス局の応援要請を受けて、全国の都市ガス事業者から次々と復旧作業を担当するガスマンたちが到着した。

山田さんの仕事は、復旧状況をメディアなどに伝える広報班の班長だった。「私が仙台入りしたのは震災から1週間ほどしてからでした」と山田さん。すでに、全国から駆けつけた都市ガス事業者ごとに、復旧地域の割り当てが決まり、作業が始まっていた。

ガス管の復旧は、まずガスが止まった全てのお客さまの家を訪問しガス栓を閉める。その後、地中を掘り返して、ガス管の被害があった箇所を修繕し、埋め戻す。そして、再度全てのお客さまの家を訪問しガスが安全に使えることを確認したうえで、ガス栓を開ける作業だ。

ガスマン2700人 仙台で挑む4800キロ
ガスマン2700人 仙台で挑む4800キロ

山田さんが驚いたのは、東京、大阪、西部ガスなど各地から集まったガスマンの使命感の高さだった。「インフラを支えているという使命感は地元でも被災地でも同じ。市中のホテルはほとんど満室で、多くの応援隊は片道1時間以上バスに乗って、行き来していました」と振り返る。

山田さんは被災地の仙台や石巻市にのべ1カ月強いた。
各地で違う色の制服を着たガスマンたちが工事をしていた。
阪神・淡路大震災や新潟県中越地震で被災したエリアにあるガス会社からの応援隊は「恩返ししなきゃ」と言っていたのが記憶に残る。

復旧が進むにつれて、市民からお礼の手紙や電話が仙台市ガス局に寄せられるようになった。「何日ぶりにお風呂に入れたことか。ありがとう」という電話や、幼稚園児や小学生から絵入りの手紙も届いた。

それを事務所に貼った。「応援のガスマンたちがじっと読んでくれるんですね。きっと励みになったんでしょう」。

復旧作業事の打ち合わせでは、各地の方言が飛び交った。ガス管は、北から南まで全国につながっているわけではない。でも、気持ちというか、絆はつながっているんだ、と思った。

仙台市ガス局によると、応援にかけつけたのは北海道から九州まで49事業者、のべ約72000人にのぼった。復旧が完了したのは4月16日だった。山田さんが勤務する東京ガスグループは、被災地にのべ約5万人の社員を派遣した。それだけに、東京ガス社内でも震災に思い入れのある社員は多い。

(朝日新聞SHOP・浅野真/2019年1月取材)

あのとき、日比谷花壇は……

被災地にスイセンの花を咲かせよう……。「朝日新聞SHOP」とのオリジナル仏花が人気の日比谷花壇は、2011年から13年にかけて、「スイセンプロジェクト」の支援を行ってきた。

プロジェクトを立ち上げたのは園芸家の柳生真吾さん(故人)だった。柳生さんは被災地を訪れ、がれきの中で津波にも負けずに咲く黄色いスイセンを見かけた。「元気に咲くスイセンが被災地の方々に希望と元気を与えるのではないか?」。
こう考えた柳生さんが、全国の庭からスイセンを集めて東北へ贈るスイセンプロジェクトを始めた。

日比谷花壇は、柳生さんの考えに共感しプロジェクトに参画。
スイセンの球根の受け入れ先として同社の東北のセンターを提供し、被災地へ、球根を振り分ける役割をした。社員自身も被災していたが、東北を花で元気にしたいと作業を進めた。

震災からわずか半年後の9月のことだった。

日比谷花壇は、スイセンプロジェクト「球根シェア 5for5」という活動も始めた。スイセンの球根を5個買うと、被災地にも別の5個が送られる仕組み。自宅にも、被災地にも、翌春にはスイセンがきれいな花を咲かせるという、一方的ではない、「球根がつなぐ支援」だった。

なぜ、スイセンをシェアしたのか。
「年が経つと被災地以外はだんだん無関心になりがちです。スイセンを自宅に植えていただくことで毎年春になれば咲くスイセンの花を見て、震災の歴史を忘れないという企画にしました。」と、日比谷花壇。

被災地での配布は、2011年9月23日、仙台市にある「仙台一番町商店街」で2万個。続いて、陸前高田、気仙沼、大船渡、名取市など。小学校や仮設住宅の庭地、道路沿いなどに球根は植えられた。2011~2013年にかけて、全国から寄せられた球根は、約13万個にもなった。岩手から宮城、そして福島の沿岸にスイセンの球根が植えられた。(http://suisen-project.com/map2011/

柳生さんは2015年、咽頭がんのため、47歳の若さで亡くなった。「スイセンプロジェクト」を始めるとき、こんな呼びかけをしていた。

「大きな団体だけが支援できるわけではないと思うのです。一人一人の思いを球根に託しましょう。きっと、その想いは春に芽をだし、花を咲かせることでしょう!」。一人一人の思い……。今回の復興フェアにもつながると感じた。

(朝日新聞SHOP・浅野真/2019年3月取材)