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広島の声

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小川節子さん 直接被爆・距離1.5km(吉島)
被爆時15歳 / 神奈川県横浜市中区5637

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。   被爆60年風化されてゆくのが悲しく思います。被爆者として核の恐怖を語り伝えたいと 願い語り部をして来ました。55年間私の作る短歌を被爆の歌を作り作品として残して来 ました。生きのびて来た私のつとめだと思っています。
(2005年)

  バンクーバー被爆証言
 私は広島市で15歳のとき被爆しました。以後56年間、波乱の人生を21世紀まで生き延びて来ました。例年、当地に来るチャンスがありましたが、膝が痛く不安でキャンセルしました。今年も不安でしたが、一大決心で、皆様にぜひ、核兵器の恐ろしさを知ってもらいたいと思い、ご当地にやって来ました。

  <戦争中は学生も工場へ>
 1945年、日本では戦争が始まって9年になり、食べる物も着るものも不足し、毎日お腹のすいた状態でした。男性は軍人として召集されるので、国内にいる学生は、勉強をやめさせられ、軍需工場に動員されて、毎日休日なしに働きました。私は、広島市の郊外で育ち、女学校の寄宿舎に入寮していましたが、学校ではなく工場に通っていました。

  <広島市で原子爆弾に被爆>
 1945年8月6日、午前8時15分、私たち山中高等女学校の生徒たちは、爆心地から1.5kmの飛行機工場でエンジンを造る作業をしていました。
 私たちがメッキの作業台で仕事を始めた時、ピカッと光り、隣りの友達と顔を見合わせた瞬間、ドーンと大音響がして真っ暗になり、爆風で屋根や窓ガラスがグワーンと飛んで来ました。私は田舎育ちで反射神経があり、ぱっと作業台の下に入りました。2、3分して音が静まり、立ち上がったら、屋根はなく青空が見えました。
 そのまま立っていた同級生は、飛んで来たガラスや材木の破片で肩や頭を負傷して血が吹き出していました。私は幸いにも無傷でした。
 「ウワーン、お母ちゃん痛いよう」と下級生が泣いているので手当をしてあげました。人間の運命は紙一重で、窓際に座っていた友は、厚い防空暗幕を頭から被り無傷でした。同じ家屋内で被爆しても明暗があり、屋外にいた人は光線と熱線で全員が火傷をしました。当時は原爆の知識はなく、市民は「ピカドン」と呼びました。

  <被爆の日の様子>
 爆風で破壊され折り重なった瓦礫の上を友達とやっと歩き、近くの防空壕に行きました。途中で全身血だらけの人、両腕の火傷で皮膚が破れてだらりと垂れ、爪のところでぶらさがっている人、顔がパンのように脹れ失明して逃げて来る人達など、お化けの行列で、途中で力尽き砂の上にずらりと並んで倒れ苦しんでいました。中には火傷で熱いので川に飛び込んでいる人々もいて、川は、人と血の海の流れでした。私はいま思い出しても恐ろしく身震いがします。
 やっと防空壕に辿り着き、三角巾で負傷者の手当をしましたが、次々と大勢で手の施しようもなく疲れ果てました。
 暑いので喉が乾き、破裂した水道管からバケツに水を汲んで飲みました。地上に倒れている人を跨いで通ると、失明し息絶えだえに転がっている人の手が、あちらこちらから伸びて私の足に取り縋り「水を下さい」「水、水」と苦しいうめき声がするのです。
 負傷者に水を飲ませると死亡すると聞いていたので、心を鬼にして手を振り払い、振り払いし、ついに足でも払って、負傷者を跨ぎ跨ぎ通ってバケツの水を運びました。
 あとで考えると、暑く苦しく喉が乾き、死の前の末期の水が飲みたかったのだと思い、一口ずつでも飲ませてあげればよかったと後悔しています。戦争が終わっても、この時の夢をよく見て悲しく目覚めました。

  <かぼちゃの青かび>
 昼に大豆入りのおむすびが配られましたが、私は人々の傷から出た血のにおいのために食欲がありませんでした。夕暮れが近づくとお腹がすきました。男子学生が畠から取ってきたかぼちゃを、ドラム缶で粉味噌を入れて煮て、皆で分けて食べました。
 夜は防空壕で眠り、あさ起きて驚きました。かぼちゃに2,3センチの青かびが生え、ぶくぶくに腐って指がずぶっと中まで入りました。昨夜食べたかぼちゃも、飲んだ水も寝た土もすべて高濃度の放射能で汚染されていたのだと後で思いました。

  <8月7日、佐伯町の自宅に帰る>
 次ぎの日、焼け跡のまだ熱い灰を踏み、10時間も歩いてやっと実家に辿り着きました。心配していた母は抱きついて喜びました。父は私を市内の学校まで探しに出たそうです。その父と、枕を並べて寝ました。
 下痢が続き、医者の付けた病名は擬似赤痢でした。私の恵まれていたことは、実家が被爆地から20kmも離れていたことと、家族が元気で、愛情で介抱してもらえ、食べる野菜があったことで、1ヶ月でやっと元気を回復しました。

  <下級生たちの友情>
 13歳の下級生は、爆心地から500mのところで被爆し、洋服が熱線で焼けてぼろぼろになり、その一人の服は前半身全部が焼け落ち裸体で自宅に帰るのに、手で胸をかくしても、女性の下部がかくされず、皮膚も赤黒く腫れ、人前を歩くのが恥ずかしく泣いていました。
 うしろが焼けて前が残っている三人の同級生が、前に一列に並んで歩き、彼女を後ろにかくして励まし、やっと自宅に送り届けました。後日、母上が、娘のためにしてくれた彼女たちの友情が涙が出るほど有難かったと話して下さいました。戦争中の女学生の友情物語りです。
 でも彼女は三日後に、送り届けた3人の友達も一週間後に亡くなりました。若い学生さん達に私は涙をこらえてお話しました。皆様も仲良く生きて下さい。

  <被爆後をどう生きてきたか>
 23歳のとき結婚し、妊娠しましたが、9ヵ月の早産で赤ん坊は1日目に死にました。小さな小さな体中、青い斑点があったと後日母から聞きました。2年後に離婚しました。
 1953年、広島市役所に勤め、行政が初めての被爆者の実態調査をした10名の調査員の中にいて、悲惨な話をいろいろと聴き、レポートに纏めました。
 1954年、米国がビキニ島で水爆実験をした時、日本のまぐろ漁船員が被爆して帰国し、久保山愛吉さん等が死亡した事件を契機に、広島市民は立ち上がり、婦人会、市議会、県議会が、ノーモア被爆者の声をあげ、それが第一回の原水爆禁止大会に繋がって行きました。

 私は絶えずマスコミ取材に追われ、その時の新聞記者と交際し、同棲生活をしましたが、彼の両親は、私が被爆者であるという理由で入籍に反対し、出産もしましたが、また早産で、1ヶ月で私の男の児は死にました。結局愛は実りませんでした。病院に診察に行くと、被爆者はうつるからと離れて座られたりし、差別され悲しい思いをしました。被爆者の就職、結婚その他に配慮して、国も行政も、その住所名簿を公表していません。
 3人目の夫は、義母が広島陸軍病院の総婦長でしたので、8月7日に市内に入って探しましたが見つからず、被爆と同時に蒸発したのであろうと推測されています。
 39歳で子宮外妊娠して右卵巣を摘出しましたが、40歳になり左卵巣で女児を出産しました。現在、一人娘は31歳で、神奈川県庁に勤めています。

  <語り部として>
 私は55年間、日本短歌を作っています。詞は文字で残っているので、様々な苦悩、悲しみ、次々と病気に耐えて生き延びた記録が残っているのは幸せなことと思っています。
 第一回原水爆禁止大会から被爆証言をして来ました。以後40年間、21世紀まで生き延び、病気をきりぬけ、体の中はボロボロですが、平和こそが一番大切であること、語り部として若い人達に話して来ました。
 広島の女学校の同窓会に集りますと、同期生300人の中で亡くなった人100名、乳がん体験者60名、子宮外妊娠した50名、その他の人もいろいろな病気をもっています。
 私は今71歳です。体調もわるく、外国での被爆証言はこれが最後であろうと思います。被爆者の平均年齢は70歳を越えました。もうあと10年もしたら被爆体験を語る人はいなくなるでしょう。
 私は貴方達、若い学生さん達に告げたい。原爆は今後絶対に使用してはならない。人類が滅亡してしまうからです。世界中の人達が平和の中で生活できることを願っています。
(2010年送付=入力 2001.9.7)