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広島の声

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前田サトミさん 直接被爆・距離2km(南観音)
被爆時14歳 / 広島県安芸太田町11006

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  被爆体験の中で今も忘れられないこと
 大音響とともに天井が崩れ落ち建物の下敷きになり、身動きひとつ出来ずもがき苦しむ。 何時間が過ぎた頃に、助け出され気が付いたのは工場の診療所の前。二日間も工場の防空 壕で過ごし、三日目にようやく姉がたずねて来てくれた。その間、工場の人にもらったの はおにぎりが2個。三日目に姉と二人で観音町から横川へと歩いて帰った。電車通りのあ りさまは、まるで生地ごく。横川の家も全部焼き落ち、それから可部線の線路づたいに安 村まで歩く。そこには、重傷の父が待っていた。ここで20日間居た。

 次世代へ訴えたいこと
 私の被爆体験をもとに毎年の様に8月6日を前にして、子供達に色々と話を聞いてもらい、 生命の尊さにふれ、戦争のおそろしさについて話をしてきた。平和というものが如何に大 切であるかと言うことを・・・。
(2005年)

   被爆体験から
 恐怖のどん底に追いやられた昭和20年8月6日午前8時15分、朝から雲ひとつなく、ぎらぎらと焼きつくような暑さ。
 観音町の三菱機械工場へ横川町から毎日学徒動員として電車で通っていた。「お早うございます。今日も一日頑張りましょう。」若く元気な声の挨拶がとび交い、それぞれに作業前の身支度。その時だ。大音響とともに天井が崩れ落ち、建物の下敷になり、身動きひとつ出来ずもがき苦しむ。「誰か助けてー。誰か。」そのうちに気力を失い、いつの間にか気がとおくなっていった。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。あたりを見ると、血だらけの人、やけどの人、呻き狂ったような人、見わたす限り私の回りはけが人で埋まっている。何時間か過ぎた頃に私は助け出され、気が付いて見ると、ここは工場の診療所の前。長い時間待ってようやく治療の順番がきたけれど薬も何もない。そこらへんの破れた服をちぎってひたいに巻いてもらった。私のひたいは破れ皮膚が顔面に垂れ下がり片目は開けていられない。(これは後程分かった事だが、ひたいは15cm程の裂傷)二日間も工場の防空壕で過ごし、三日目にようやく姉がたずねて来てくれた。その間、工場の方にもらったのはおにぎりが2個。姉と二人で横川の我が家に向って歩いた。着ている夏の制服は血でまっ赤に染まりぼろぼろになっている。靴はどこへやら、はだしのままでアスファルトの上を歩いた。

 一面焼け野が原になった市街地は、るいるいと瓦礫の山。燃え尽きてしまった家の跡のあちこちから煙がくすぶり続け、無残にも変り果ててしまった広島の町。三日目の午后になっても道路の両側には数え切れない程、多くの人々が呻き苦しみ倒れ伏している。死んでいる人々の中、今にも息絶えそうにうごめいている人が見えた。よほど熱かったのだろう、防火用水槽に頭を突っ込み団子の様に折り重なって焼け焦げている。焼け焦げた電車の中の乗客が座席に座ったまま黒こげの姿。これが本当の生き地獄なのだ。

 横川町の家も全部焼け落ち、可部線の線路づたいに重傷の父が待っている安村へと向かった。だんだんとひたいの傷がひどく痛み、四日目に近くの医院に出かけてみたが薬も何もなかった。そこでも、大勢の負傷者がおり十日も経つうちに火傷をした人の皮膚が腐り出し、うじが湧いて這い出している。バタバタと死んでいく人たちを見ると、自分も心細く淋しくなり、これからどうして生きて行ったらいいのか考えるばかり。父も家の下敷きになり50日間もの間に吐血が続いたが、奇跡的に死を免れた。

 私の被爆体験をもとに、毎年の様に8月6日を前にして子供達に色々と話を聞いてもらい、生命の尊さにふれ、戦争のおそろしさについて話をしてきた。
 平和というものが如何に大切であるかということを……。
(2010年追記)