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広島の声

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澤田一瑩さん 直接被爆・距離1.8km(己斐本町)
被爆時9歳 / 東京都大田区9058

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  1945、8、6、8:15、あの一瞬は60年経った今も忘れられない!!ピカッと 光ってドーン、真黒になって、まわりのものが壊れ、部屋中に降って来た。病いで床に伏し ていた私は、“アツイ”という弟を見ると、火傷をしたらしい。そばにいた父は弟を抱いて、避難しようとする父を追った。庭には屋根瓦が砕けて散かっていた。父は頭から流れる血、くつを持って履き、山の方向に逃げましたが、そちこちの家から火災が起きていても、消そうとする人もなく、放心して逃げまどう人ばかりでした。

 このところ、中国国民が過去の歴史に対して、日本に謝罪を求めて暴動を起しておりますけ ど、理由はともあれ、罪のない市民、女性、子供を一発の爆弾で10万人をこえる人々を 殺して、当然というアメリカと云う国に怒りをおぼえます。心からなる素朴な怒りです。 当時3才だった妹は、爆心地近くで被爆しやっと帰って来たものの、頭にさわると、そ の場所の髪はそっくり抜け、頬には穴があき、舌は半分にち切れて、食べ物も少く、か たい大豆を食べていましたが、2ヵ月後死亡しました。

 こんなことを二度と繰り返してはなりません。
 “北朝鮮も核実験”という報道に心配が又一つ増えました。
(2005年)

 「語り継ぐ私の8月6日」
 ヒロシマの空は、朝から良く晴れて、暑い夏の1日が始まろうとしていた。
 1945年8月6日。当時9才だった私は肋膜炎を患って床に伏し、父はそばで出勤の準備をしていた。5才だった弟は陽の当る縁側で両足を投げ出し、おもちゃの自動車を走らせて遊んでいた。
 ”ピカッ”午前8時15分突然閃光が走り「アツーイ」弟の声とともに”ドーン”と大音響、あたりは真暗。きのこ雲の中だったのだろう。薄明るくなった時、父は弟を抱いて砕けて飛び散った屋根瓦の上を裸足で庭を通って下駄箱から履物を探した。父の頭からは血が吹き出ていた。落下物で怪我をしたらしかった。

 私は祖父に連れられて山の方角に逃げた。途中あちこちの家から火災が発生していたが放心状態で逃げ惑う人ばかりで火を消す気力もない。山の中腹の家まで逃げて見渡す市内は火の海だった。そのうち爆風で空中に舞い上ったさまざまな物とともに、黒い雨が降った。そうこうしていると爆心地方面から逃げて来た人々も集ったが、衣類が皮膚に焼けつき、露出部分の皮膚は灰色に変色、ボロのように垂れ下って、一体誰なのか見分けがつかない状態だった。

 夕方になって祖父に背負われ家に帰って見たら、幸い家は焼け残り、妹以外の家族は揃ったが、弟は両腕両足、集団疎開を翌日に控えて準備のため小学校の校庭に居て被爆した12才だった兄は首、腕、足に火傷、いくつも大きな水ぶくれが出来ていた。つける薬も手当する術もなく、「痛い!!痛い!!」と泣くばかりだった。直射日光に当っていた露出部分が火傷になったらしい。いく日か歩けない日が続いた。
 3才だった妹は、爆心地近くの伯母の家で被爆。砕れた家屋の下敷きになった伯父に火が攻っているので早く逃げるようにと急がされ、伯母と一緒に1週間後裸同然で帰りはしたものの、頭髪は握っただけそっくり抜け、頬には穴があき、その穴から半分に千切れた舌が見えた。食べるものは炒った固い大豆だけ。1ヶ月後伯母の後を追うように亡くなった。この食物の豊かな時代、妹のことを思うと胸が痛む。

 私の家は広島の西の方角に位置していた。家の中から焼け野原の中心地を通して東の端まで見渡せた。電気はつかない。毎夜、河原で荼毘に付す赤い炎だけが目についた。私の通った己斐小学校では、校庭に溝を掘り遺体を焼いた。その数は3000体を上回ったと聞く。人を焼く独特の臭いは、いつまでも鼻に残った。雨の日は、青い光が空中に浮いた。水分が骨と反応して発光したのだろうか。
 あの時は生き残った祖父母、父母、弟は次々癌にかかって他界して、現在兄と私の2人だけ残っている。

 被爆の年に、140,000人の市民の命が奪われた。1発の爆弾で罪のない人々を殺した米国人の良心を問いたい。
 昨年プラハでのオバマ大統領の[核廃絶宣言]は次いで、本年4月6日[米戦略体制見直し]4月9日[米口新核軍縮調印]の報道に【核なき世界】への一歩と希望をつなげたい。
 2010年4月10日記
(2010年追記)