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紙面から from Asahi Shimbun

【熱い、助けて、水を 再現ヒロシマ8・6 「被爆60年アンケート」から 】 (2005年8月6日 朝刊)

 たった一発の原子爆弾によって、人口約35万人の広島市は壊滅した。きのこ雲の下で、人々は懸命に生き延びる道を探した。それは、被爆者が歩むことになる長い苦難の道の始まりでもあった。原爆被害者を対象に朝日新聞社が実施した「被爆60年アンケート」に、全国から1万3204人の回答が寄せられた。このうち広島で被爆した8576人の証言をもとに、「8月6日」を再現した。

 ◆午前7時31分 警報解除
 B29見えたが、倉庫で仕事続けた
     *
 午前1時45分 原子爆弾を搭載したB29爆撃機エノラ・ゲイ号が、太平洋マリアナ諸島のテニアン基地を出発
   2時15分 同機内で起爆装置の取り付け完了
   7時9分  同機よりひと足先に飛び立った気象観測機が広島上空に。広島地区に警戒警報発令
   7時31分 観測機が飛び去る。警報解除
     *
 本土決戦に備え、大本営は45年4月、西日本の拠点として広島市の二葉山近くに第二総軍司令部を置いた。周辺都市が空襲を受けても、広島は軍都にかかわらず無傷だった。「安芸門徒の多い宗教都市だから空襲されない」という声すらあった。
 ところが、5日夜から6日朝にかけて相次いで警戒・空襲警報が発令され、眠れぬ夜を過ごした人が多い。朝にやっと解除され、安心した市民は防空壕(ごう)から出ていつもの生活に戻った。
 宿舎から馬に乗って第二総軍司令部に向かっていた参謀の陸軍中佐、長谷川壽雄さん(97)=東京都世田谷区=は「めずらしく警報が出たので、解除されてから出勤した」と振り返る。
 広島市西部の自宅を出た直後に警報を聞き、家に逃げ込んだ本間文紀子さん(70)=新潟県村上市=はすぐ警報が解除され、あわてて小学校に向かった。
 だが観測機が飛び去った後、別のB29が接近していた。
 広島工業専門学校(現・広島大学)の学生だった加藤秀雄さん(79)=横浜市青葉区=は、工場の敷地内の仮教室で授業を受けていた。「上空にB29が見えたが、あまり気にならなかった。広島に近接する呉市に自宅があり、200機以上の艦載機の空襲を経験していた。もう慣れっこになっていた」
 会社の倉庫で作業中の岡村多恵子さん(79)=東京都大田区=は、爆音でB29の飛来に気づいた。
「同僚に伝えたが、みんなは『警戒警報は解除されている』と言って、仕事を続けた」
 6日午前8時の広島市の気温は26・7度。米観測機は「天気も良好で爆撃可能」とエノラ・ゲイ号に伝えた。
 街は、無警戒に近かった。

 ◆8時15分 原爆投下
 体に熱いもの走る、友の髪が燃え始めた
     *
 午前8時6分  松永監視哨(広島県福山市)が「敵大型2機を発見」と記録
   8時13分 中国軍管区司令部が「敵大型3機、西条(東広島市)上空を西進しつつあり」と警報発令を伝令
   8時14分 敵機を警戒中の中野探照灯台(広島市東部)が大型機の爆音に気づく
   8時15分 エノラ・ゲイ号が原子爆弾を投下
     *
 不意打ちするかのように、突然、緊張が訪れた。
 広島湾に面した元宇品の高射砲陣地で指揮をとっていた陸軍少尉、横山達雄さん(83)=千葉市若葉区=は、宿舎で朝食をとろうとした。その矢先、再び警報が鳴った。配置につき直し、砲口を敵機に向けた。「射撃できる高度8000メートルまで降下するのを待った」という。エノラ・ゲイ号の飛行高度はそのとき9600メートル。撃ち落とすには遠すぎた。
 同じ陣地の砲手だった松川宝蔵さん(85)=大阪市西区=は「射撃には自信を持っていたが、B29は最後まで射程内に入らなかった。一発も発射できなかったのが残念だ」と話す。
 空襲や警戒警報を発令・解除する中国軍管区司令部の指揮連絡室は、爆心から約700メートル離れた広島城内堀の半地下室にあった。
 学徒動員で同司令部の通信連絡係をしていた比治山高等女学校(現・比治山女子中・高校)の岡ヨシエさん(74)=広島市中区=は、近隣の司令部や報道機関に「広島、山口、警戒警報発令…」と言いかけて、閃光(せんこう)を浴びた。外に出ると、倒れていた兵士が「新型爆弾にやられた」と怒鳴った。指揮連絡室に戻り、専用電話で福山の司令部に「広島が新型爆弾にやられました。全滅に近い状態です」と第一報を送った。
 市内の広島女子高等師範付属山中高女(現・広島大付属福山中・高校)にいた松本鞆子(ともこ)さん(75)=東京都狛江市=は「校庭の水飲み場でひと口飲んだ時、閃光が広がった。体に熱いものが走った。そばにいた級友の髪の毛が燃え始め、私の髪やズボンも燃えた」。
 市民たちは、何が起きたのかわからなかった。
 爆心地から1・6キロの自宅にいた横浜市立大名誉教授の長田(おさだ)五郎さん(78)=東京都世田谷区=は、「時限爆弾が投下されたと思った。とっさに近くの川に飛び込んだ。崩壊した自宅で、父はガラス片で全身血まみれになりながら『おれは死なんぞ』と叫んでいた」。その父は、戦後まもなく、子どもたちの被爆体験記「原爆の子」をまとめた長田新(あらた)さんである。
 市中心部から約2キロの陸軍兵舎で休んでいた細谷勝一さん(82)=栃木県真岡市=は、爆風で数メートル吹き飛ばされた。「意識を取り戻すと変なにおいがした。毒ガスと思い、両手で目や鼻、口をおさえた」

 ◆8時45分 火事嵐発生
 下敷きの妹残し、わびながら逃げた
     *
 午前8時45分 火事嵐が吹き始める
   8時50分 宇品の陸軍船舶司令部にやけどの患者が続々と運ばれる
     *
 爆風と熱線に続いて街を襲ったのは、火災だった。熱線は、爆心地から600メートル離れた地点でもセ氏2000度あった。
 爆心地から1・5キロで通学途中に被爆した山家(やまいえ)好子さん(71)=兵庫県尼崎市=は、鉄橋の枕木が燃えているのを見た。同1・7キロの中村妙子さん(74)=広島県安芸高田市=方では、廊下の障子が一斉に燃えあがった。
 爆風から約30分後、火災で熱せられた空気が急上昇し、周囲から冷たい空気が吹き込んだ。「火事嵐」の発生である。
 爆心地近くの大手町から家族で逃げ延びた佐藤良生さん(74)=横浜市栄区=は、歩いてすぐの市役所に避難した。そのうち役所からも出火し、四方は熱風が吹き荒れた。「防火用水に何度も飛び込んで体を冷やしたが、着ているものはすぐに乾いた」という。
 火災は午前10時ごろから午後2〜3時がピークで、爆心地から約2キロ以内はことごとく焼失。家の下敷きになった人は、生きながら焼かれていった。
 平野町(爆心地から1・8キロ)の青木美枝さん(83)=栃木県小山市=は快晴の空を見上げていた。気がつくと、家の下敷きになっていた。「すき間からはい出たが、妹は身動きできない。外に出て驚いた。だれ一人歩いていない。全滅なのだと気づいた」
 そのうち、家は火の手に包まれた。火を消そうと夢中で瓦や砂を投げつけた。「『うちにかまわんで逃げて』と妹は最後の声を振り絞った。ごめんね、ごめんね、と何度もわびながら逃げた」
 天満町(同1キロ)の藤井澄子さん(68)=京都市上京区=は父、母、祖母が家の下敷きになった。
「『助けて』という声が聞こえたが、どうすることもできない。近所の人と逃げた。2日後、自宅に戻った。みんな黒こげになっていた」

 ●胸騒ぎ、建物疎開断り教え子救う
 8月6日は各地で朝から屋外で建物疎開の作業が行われ、多数の動員学徒が原爆の犠牲になった。作業は広島市内の7カ所であり、引率教師と生徒の計約8400人が参加。うち7割が死亡したが、引率教諭の判断で奇跡的に難を逃れたクラスもあった。
 建物疎開は家屋を強制撤去し、防火地帯をつくる作業。軍などの命令で44年末から始まった。
 航空機の部品製造工場で勤労奉仕中だった県立広島第一中学(現・県立国泰寺高校)2年生の約150人の場合、6日に市中心部の建物疎開作業に出るよう工場側から要請を受けていた。引率責任者だった戸田五郎教諭はそれを断り、自宅修練とした。
 同教諭が93年に発刊した「ピカドン――広島原爆手記」によると、通勤途中のある日、労働者風の男から偶然、米軍機が投下したというビラを見せられた。「日本が負けるのは決定的だから直(す)ぐに無駄な戦闘を止(や)めよ」という内容だった。胸騒ぎがした。
 手記には、「(建物疎開の作業場所には)防空壕(ごう)も遮蔽(しゃへい)物も無かった。もし作業中に突然空襲があったら現場は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化すだろう」と書いている。
 同僚教諭からは「非国民」と批判され、辞職も覚悟したという。
 戸田教諭は2年前、91歳で死去した。生前、教え子の広島市安佐北区の中本薩雄さん(74)は、「ピカドン」の出版に奔走した。兵庫県川西市の今田耕二さん(73)は昨年、恩師の判断で九死に一生をえたことを地元の自分史グループの文集で紹介した。
 「教え子をいたわる心と命令の遵守(じゅんしゅ)のいずれを優先するかで苦悩されたことは想像するに難くない。戸田先生のこの勇気ある措置のおかげで、私たちの今日がある」と、今田さんはつづった。