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紙面から from Asahi Shimbun

【閃光、爆風、黒い雨 再現ヒロシマ8・6 「被爆60年アンケート」から 】(2005年8月6日 朝刊)

 ◆9時 強まった雨脚
 焼けただれた顔、路上埋めるうめき声
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 午前9時 放射性降下物を多量に含む黒い雨が強まる
  10時 火災が広がり、午後にかけて広島市内は猛火に。陸軍船舶司令部が陸軍大臣、参謀総長あてに被災状況を電報報告
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 やがて広島市北西部を中心に大粒の黒い雨が降った。降雨は夕方まで記録され、一部の火災は下火になった。
 川野昭生さん(75)=広島県安芸高田市=は広島市内にあった軍の被服工場で被爆した。建物の下敷きになった先輩を救助していたら、にわか雨のように黒い雨が降り出した。先輩は「アメリカは油をまいて我々を焼き殺そうとしている。防空壕に避難しろ」といった。
 黒い雨は少なくとも爆心地から北西約30キロまで降った。7キロ離れた郊外に住んでいた福丸隆文さん(64)=茨城県ひたちなか市=は降雨後、小川に魚が浮いていたのを覚えている。
 街中からは、被災者が郊外に逃れ始めた。
 相川国義さん(72)=東京都足立区=は千田町(爆心地から1・5キロ)の自宅で被爆し、近所の人と避難した。「路上はもう地獄のようだった。よろよろ歩く女学生たちの顔は焼けただれ、溶けた皮膚が垂れ下がっている。その姿を見た時、立っていられず、しばらく座り込んでしまった」
 女学校4年だった吉田清子さん(75)=さいたま市南区=は軍需工場で被爆した。「午後、路上に倒れている大勢の少年少女を見た。市役所付近で建物疎開作業をしていた生徒だった。目鼻も分からない状態で、水、水とうめいていた」
 聴覚障害をもつ伊藤黎子さん(77)=東京都世田谷区=は千田町(同1・5キロ)の自宅で家の下敷きになった。「近くの大学のグラウンドまで逃げると、やけどを負った兵隊がたくさん横たわっていた。通りかかった橋の下をのぞくと、洪水で押し流される木材のように無数の遺体が浮き沈みしていた」

 ◆午後5時 防空本部設置
 1人に油塗った、50人の列ができた
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 午前11時   広島市中心部から約2キロ南の御幸橋に臨時治療所設置
 午後1時30分 陸軍船舶司令部、全部隊の日常業務を停止し救護活動へ
   5時    比治山の多聞院に「広島県防空本部」設置
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 広島市は空襲に備え、国民学校や軍施設、寺院など計32カ所を救護所に、18カ所を救護病院に指定していた。負傷者であふれかえる中、看護師、見習士官、学生らが救護にあたった。
 爆心地から2・5キロの比治山公園は、救護所の一つ。斜面に掘られた防空壕に、午前中から大勢の負傷者が詰めかけた。陸軍兵器補給廠(しょう)の軍医田口正秋さん(81)=福岡市南区=は治療場所の確保に追われた。上官が素早く指示を出した。「壕の東にある兵器庫2棟とトラック3台の確保。壕と兵器庫間の500メートルの道路を片づけ。救急作業は空襲下でも断行する」
 広島市から西へ約20キロ離れた大野陸軍病院にも患者が押し寄せた。日赤新潟支部から救護班として派遣されていた守屋ミサさん(84)=東京都杉並区=は「集会室や娯楽室、廊下にまであふれた」と語る。
 広島県呉市の呉共済病院も同じ状況だった。看護師だった坪川吉子さん(78)=広島県三原市=は「ありったけのベッドを支度するよう指示があった。真相が分からないまま総動員で用意した。陸軍のトラックが数え切れないほどの被災者を搬送してきた。包帯やガーゼをいくら作ってもすぐ無くなった」。
 見知らぬ人同士で、助け合いの輪が広がる。
 神戸の薬学専門学校生で、広島の実家に帰省中だった佐藤典子さん(76)=東京都港区=は「庭先に埋めておいた非常用の食用油を1人の被災者に塗ったら、すぐに50人ほどの行列ができた」と振り返った。
 学徒動員先の工場へ向かう途中で被爆した大上(だいじょう)恵美子さん(77)=広島市安芸区=は、頭や首にやけどをした。「痛くて泣きながら歩いていた。道ばたで見知らぬおばさんが、『これでやけどを押さえなさい』とキュウリの輪切りをくれた」
 軍も動き出した。とくに活躍したのが、広島市南部の宇品港周辺に拠点があった陸軍船舶司令部(暁部隊)だった。比較的被害が軽かったため、市内を貫く七つの川を小型船でさかのぼって消火や救出にあたった。
 船舶整備教育隊の見習士官だった中村治弘さん(82)=札幌市西区=は午後3時、中隊の空き兵舎に負傷者を収容する用意をした。
 江田島の陸軍特攻部隊に所属していた平塚矩正さん(78)=宮城県塩釜市=は、命令で午後3時ごろから爆心地へ。「国民学校で倒れていた女性は『焼夷弾(しょういだん)で街がやられた。兵隊さん、かたきを討ってください』と言い残して死んだ」
 一方、郊外へ向け、負傷者を乗せた列車やトラックが市内から出発した。郡部の国民学校や病院は緊急の避難・救護所になっていた。県内各地へ避難した被災者は約15万人にのぼる。
 広島市から北西約20キロの砂谷村(現・広島市)に疎開していた野中潤子さん(67)=川崎市多摩区=は「夕方、やけどをした大勢の人がトラックの荷台に乗って帰ってきた。事情を知らない農家のおばあちゃんは、『あんなに大やけどするまで火のそばにいなくてもいいのに』と言った」と語る。
 広島県北部の君田村(現・三次市)にあった国民勤労動員署の職員だった小豆原たまきさん(80)=三次市=は出勤途中、地響きを感じ、南の空に稲光を見た。「署へ着くと、広島に電気爆弾が落ちたという情報が入った」という。握り飯や救急箱、水を持って三次駅に向かった。
 郡部の各駅には、被災者を満載した汽車が、続々と到着した。

 ◆7日未明 米投下発表
 真夏なのに寒くて異常に震えた
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 午後6時 ラジオ放送が被害を伝える。「B29数機が広島に来襲。焼夷弾を投下したのち逃走せり。被害状況は目下調査中」
   8時 広島県知事を中心に戦災対策を協議し、各地に救援を要請
  11時 近隣の海軍衛生学校の生徒ら約50人が千人分の治療品を携えて広島に到着し、夜通し応急手当てを続ける
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 夜になると、救護所や街頭はうめき声であふれた。避難する場がない人は、畑や河原、ボートの中で野宿した。夏にもかかわらず、夜は震えるほどの寒さだった。
 国鉄職員で、広島駅で被爆した渋谷正道さん(74)=広島県海田町=は近くの東練兵場に避難した。
「寒くて、異常に体が震えた」。防空壕に入ると大勢の遺体が放置されていた。そこで一夜を過ごしたという。
 国民学校2年生で、登校途中に被爆した種森芳枝さん(68)=広島県呉市=は、倒壊した自宅の納屋から米や麦を保存する大きなワラ袋を引っ張りだした。祖父母と3人でサツマイモの畑へ行き、「袋から頭だけ出して眠った」。
 親を亡くし、夜の焦土をさまよい歩く幼子の姿もあった。
 当時5歳だった藤井三郎さん(65)=広島県呉市=の父は、勤めに出たまま行方不明になった。母は自宅の下敷きになって死んだ。孤児になった藤井さんは泣く弟(当時3)の手を引いて比治山の学校に逃げた。「そこはすでに孤児収容所になっていた。100人ほどの子どもたちが集まっていた」
 戦前から陸軍検疫所があった広島湾の似島には、臨時救護所が設けられ、付近の寺院とあわせて約1万人の負傷者が運ばれた。
 広島市内の広島工業専門学校で被爆した橘高博さん(77)=広島県三原市=は、同検疫所に運ばれて夜を過ごした。「『水を』と泣き叫ぶ声や、重傷者のうめき声があちこちであがった。地獄絵だった」と言う。
 混乱のなか、何とか軍の指揮を守ろうとする人もいた。
 暴動を警戒し、陸軍の船舶砲兵幹部候補生だった有村達男さん(79)=横浜市旭区=は銃で武装して広島駅周辺を警備した。橋の上で夜通し歩哨に立った。
 救援や被害確認のため、県外から広島入りを目指す人もいた。山口県岩国市の軍需工場のトラック運転手だった宮本幸(みゆき)さん(77)=島根県六日市町=は、軍の要請で憲兵を乗せて真夜中に広島に向かった。途中、敵機が照明弾を投下し、広島市街地が昼間のように明るくなった。
 7日午前1時(日本時間)、米・トルーマン大統領はラジオを通じて世界に発表した。
 「今より16時間前、アメリカ航空機が日本の重要軍事基地広島に1個の爆弾を投下した。それは原子爆弾である」

 ●米兵捕虜は投石と憎しみの中、死んだ
 広島市内に捕虜収容所はなかったが、少なくとも12人の米兵捕虜が爆心地近くの中国憲兵隊司令部などで被災したとされる。市民は瀕死(ひんし)の米兵捕虜に原爆投下の憎しみをぶつけた。
 6日午後から広島に入った久保崎六郎さん(78)=広島県呉市=は、若い米兵2人が産業奨励館(現・原爆ドーム)付近の電柱に鎖で縛られているのを見た。
 「死んでいるようだった。憎さのあまりガラス瓶を投げた。捕虜が原爆を投下したわけではない。悪いことをした」
 粟谷正春さん(79)=同北広島町=は7日午前、奨励館の周辺で「まだ息のある若い米兵1人」を見た。「縛られた手に、青い大きな石の指輪をしていた。数時間後、米兵は息絶えていた。周りには多くの石やれんがが落ちていた」
 捕虜が産業奨励館近くまできた経緯や時期は、はっきりしない。
 7日朝、救護班員で広島に入った第十一海軍航空廠の折元寅男さん(78)=呉市=は証言する。
 「中国憲兵隊司令部の近くで2人の米兵が倒れていた。1人は死んでいたかも知れない。命令で、意識のある米兵を担架で運んだ。途中、米兵が『ウオーター』とうめき、水筒の水を顔にかけた。電柱に鉄線で縛った。年配女性が『お前が息子を殺した』と言いながら米兵をけった」
 広島市西区の歴史研究家森重昭さん(68)は、被爆米兵の全容解明に約20年前から取り組む。これまでに12人の身元が判明し、うち8人の遺族から遺影を送ってもらい、平和記念公園にある国の追悼施設に納めた。
 呉湾で撃墜された後、広島で被爆死したB24爆撃機の乗組員の遺族からは今年2月、6点の遺品を託され、広島平和記念資料館に寄贈した。遺族は「米国人も原爆の犠牲になったことを知ってほしい」と話している。
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 ここに掲載されたモノクロ写真は、朝日新聞のカメラマン、宮武甫(はじめ)氏と松本栄一氏(ともに故人)が撮影したものだ。大阪本社写真部の宮武氏は原爆投下から3日後の1945年8月9日、本社カメラマンとして最初に広島に入った。上のパノラマ写真を撮影した出版写真部(東京)の松本氏は、科学朝日の記者と一緒に8月25日にまず長崎に入り、9月上旬、広島に移動した。
 被爆地、広島の惨状を伝える写真が初めて朝日新聞(大阪本社発行)に掲載されたのは、終戦直後の8月16日付朝刊。この年、広島・長崎を取材した本社カメラマンは7人だった。
 イラスト地図の作製には広島平和記念資料館と写真家・井手三千男氏の協力を得た。