english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【太陽が爆発したのか 再現、ナガサキ8・9 「被爆60年アンケート」から 】 (2005年8月9日 朝刊)

 炎天下の街で、静かな時が進んでいた。兵器を作る合間に、家事の途中に、海辺で水遊びに疲れ、青い空を見上げた。その瞬間、閃光(せんこう)、爆風、熱線、放射線がすべてを奪い去った。二度と戻ってこない日常を、人々は心に刻み続けた。朝日新聞社が実施した「被爆60年アンケート」に全国から回答を寄せた1万3204人のうち、長崎で被爆した人は広島との二重被爆者を含めて4167人。あの日、何が起きたのか。一人ひとりの証言から、「1945年8月9日」を再現する。(職業、地名、施設名は当時)
 ○B29、小倉上空から長崎へ 青い空、遊ぶ子ども 朝から相次いだ警報
 広島への原爆投下から2日後の45年8月8日。朝日新聞は朝刊1面で「広島に敵新型爆弾」と報じた。記事が伝えた「相当の被害」の実態に、24万人の長崎市民は気づいていなかった。
 9日午前2時49分、日本の南2700キロのテニアン島から、原爆を積んだB29爆撃機ボックス・カーが離陸。第1目標の福岡県小倉市(現・北九州市)に向かった。
 この日朝、長崎市の稲佐(いなさ)署2階会議室=地図(1)=で、軍や警察の関係者が防空演習の打ち合わせをしようとしていた。陸軍の軍人だった張本俊策さん(84)=東京都江戸川区=は「広島は壊滅的打撃を受けているという情報だった。とても大型の爆弾だろうとうわさした」と振り返る。
 市内では、朝から空襲警報の発令と解除が繰り返された。44年8月以降、5回の空襲を受けた長崎の人たちは警報を「定期便」と呼んでいた。
 まず、偵察機が2機飛来した。午前9時ごろ、山本千春さん(63)=群馬県太田市=は自宅=地図(2)=の庭で兄や弟と遊んでいる時、上空にB29を見つけた。低空を飛ぶ銀色の偵察機の「黒丸の中に白星」のマークが、はっきり見えた。
 入院中だった男性(74)=大分県日田市=は病院のベッドで診察を待っていた。「早朝から敵機が来襲したが、引き返した」
 午前10時ごろ、ボックス・カーは小倉上空に到着。だが、前日の空襲による煙と雲で視界を遮られ、3度旋回して去った。熊本市の北を通過し、有明海に。
 そして、機首を長崎市に向けた。
 濱田庄八さん(77)=長崎市=は市内の叔母宅に着いた直後だった。上半身の汗をタオルでふこうとした時、ラジオが告げた。「西部軍発表。敵機中型機2機が天草上空を西進中。長崎方面警戒を要す」
 ○落下傘に円筒形の物体 きらきらと輝く、それは爆圧計測装置
 午前11時ごろ、気温29・5度。長崎市大橋町にある三菱兵器大橋工場=地図(3)=の動員学徒、笠松久米子さん(76)=横浜市青葉区=は、サツマイモの昼食の前に工場の外で手を洗っていた。
 空襲警報が鳴るなか、上空に飛行機が飛来した。音もなく落とされた白い物が、パッと開いた。「円筒形の物がぶら下がり、太陽の光を受けてきらきら輝いていた」。落下傘だ。「友達にも見せなくちゃ」。
笠松さんは工場に駆け出していった。
 国民学校教師の平山フキ子さん(81)=長崎市=も海岸=地図(4)=で落下傘を見た。海水浴を楽しむ教え子が「飛行機だ」と叫んだ。白い物が落ちてくる。金属製らしき物体が付いているように見えた。
 その正体は爆圧計測器「ラジオゾンデ」。計3機あり、原爆の爆圧、熱力などの数値をグアム島の基地に送る。米軍が「投下成功」を確認するための装置だった。
 「日本の飛行士さんが落下訓練をしてるよ。頑張ってるね」。平山さんが言い終わらないうち、鋭い光線が走った。

 ○午前11時2分、原爆投下 「逃げて」母が叫んだ 食い込む無数のガラス
 午前11時2分。「まさにピカ(光)、ドン(爆風)だった」。回答者の多くが口をそろえた。
 「なんか、落ちてきたぞー」。大井手美代子さん(76)=福岡市東区=は自宅=地図(5)=で、父の浴衣をスリップに縫い直す最中だった。大声を聞いて、窓から身を乗り出した。真っ白な光が顔に刺さり、失明したと思った。爆音は「雷が10個くらい落ちてきたようだった」。外にいた母が「美代子、逃げて」と叫んだ。
 長崎県・喜々津駅近く=地図(6)=の田んぼで雑草をむしっていた祐野孝文さん(77)=神奈川県逗子市=も、オレンジ色の光と爆音にさらされた。「太陽が爆発したようだった」。爆風がうつぶせの体を通り過ぎた。黒煙が立ちのぼった。
 長崎県香焼(こうやぎ)町の川南造船所=地図(7)=で、作業中の男性(74)は異様な雲を見つめていた。「赤、黒、紫と変化してだんだん大きくなり、空一面に広がった」。キノコ雲だった。

     ◇

 街は消えた。
 同県福田村の自宅=地図(8)=で足踏みミシンで夏服を縫っていた松坂信子さん(85)=東京都練馬区=は「稲妻かな」と廊下に立った。覚えているのはそこまで。素潜りで海底から上がる時と同じ「ウォー、ウォー」という耳鳴りで目覚めた。神棚や障子、壁の下敷きになり、数え切れないガラス片が体内に食い込んでいた。
 櫻井琢磨さん(68)=熊本市=は自宅=地図(9)=の縁側にいた。一升瓶に入れた玄米を竹の棒で突き、白米を作っていた。「夕ご飯が楽しみだな」。猛烈な光の次に暗闇と爆風が来た。

     ◇

 何が起きたのか。三菱兵器の学徒たちも分からなかった。
 茂里(もり)町工場=地図(10)=で作業していた多田滋穂さん(77)=千葉市美浜区=は、突然暗闇に襲われた。次の瞬間、「グァオー」「ギャー」と叫び声が聞こえた。猛獣の声に似ていた。2階から機械が落ちてきた。抜け出したが、周囲の建物も木々も消えている。耳に触れると、手がべっとりと赤く染まった。
 西郷寮=地図(11)=では、夜勤明けの中野隆三さん(75)=佐賀県伊万里市=が寝ていた。全身を殴られるような痛みで目覚め、柱や壁、畳が自分を取り巻き、ミキサー車の中に突っ込まれたようだ。100人以上が暮らす寮舎は、10メートル離れた水田まで吹っ飛んでいた。
 造船、兵器、製鋼、電機など、市内には三菱系の軍需工場が林立していた。三菱兵器では従業員1万7792人のうち、2273人が亡くなった。
 ◇「次は本土」米軍ビラに恐怖
 米軍は航空機で長崎市内にビラ「伝単」をまいた。「市民の戦意を喪失させる心理作戦」で、アンケートでも多くの人がつづった。
 河辺喜久子さん(80)=長崎市=は原爆投下直前の45年8月ごろ、自宅近くの裏山で時計の図柄のビラを拾った。「サイパン島、アッツ島などの名前があり、本土も危ないという内容。怖くて、すぐに捨てた」。同じビラは、長崎原爆資料館に展示されている。
 河辺さんは同5月ごろ、道端で「長崎よい国花の国。7月8月は灰の国」と書かれたビラを見つけた。
その時に想像もしなかった「灰の国」の姿は、8月9日に「これのことか」と思い起こすことになる。
 兵庫県の女性(64)も「原爆で死んだ兄が、投下の数日前に持ってきた」と書いた。「長崎良い街、花の街、8月8日は灰の街」とあった。
 原爆投下の数日前、伯川(はくがわ)政雄さん(73)=埼玉県熊谷市=が見たビラは、紙幣を印刷した裏面に文字が並んでいた。「戦争終結を嘆願すべきだ」という内容だった。
 「長崎のみなさん、8月7日が爆弾投下日です」と書かれた1枚を手にした人もいる。怖くなって、動員先の工場を欠勤した女性(76)は8月9日、「大和撫子(なでしこ)がこんなことでは、日本は負けるぞ」と憲兵にしかられた。
 原爆が落ちたのは、その数時間後だった。

 ■原爆が投下された1日■
 02:49 原爆を搭載したボックス・カーがテニアン島を離陸
 07:00 市内の濃霧が晴れる
 07:50 空襲警報発令
 08:30 空襲警報解除
 08:56 搭載機、屋久島上空を通過
 09:45 搭載機が福岡県小倉市上空に。視界不良で長崎に進路変更
 10:38 被爆前では最後の門司港行き列車が長崎駅を出発
 10:58 ラジオが「敵機が島原半島上空を北西に侵入」と放送
 11:00 長崎市上空に到着
 11:02 原爆投下。松山町上空500メートルで爆発
 11:09 空襲警報発令
 11:30 長崎県防空本部から救護隊員2人が自転車で出発
 12:05 空襲警報解除
 12:30 長崎県庁から出火。市内各所でも出火
 12:51 搭載機が沖縄の読谷飛行場に着陸
 13:50 救援列車第1号が負傷者の輸送を開始
 14:45 西部軍管区司令部「敵大型機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり」と発表
 15:00 長崎県庁が全焼。さらに延焼拡大
 18:00 長崎県警が佐賀県警などに救援隊派遣を要請
 (長崎原爆戦災誌などから抜粋)