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紙面から from Asahi Shimbun

【 消えた街、火葬の煙 再現、ナガサキ8・9 「被爆60年アンケート」から 】(2005年8月9日 朝刊)


○生き残っても「死の街」 足が焼けつくようだ うめき声、黒焦げの遺体
 生き残った人々は「死の街」を逃げた。
 西山進さん(77)=福岡市南区=は爆心地から3・5キロで被爆。救援隊として爆心地近くの工場に向かった。目をむいた馬が、がれきの中から首を出していた。そばに母子らしき人間の遺体が黒焦げになっている。「足の裏は焼けつくようだった。子供はまるでかくれんぼでもしているように、目を覆って転がっていた」
 動員学徒の平田和子さん(76)=長崎県新上五島町=は大橋工場=地図(3)=にいた。がれきの透き間のおかげで助かった。静まりかえった工場の外で、何人もの人々がもだえ苦しんでいた。「ウジ虫に熱い湯をかけたように、人間がゴロゴロ、ボロボロとわいてきた」と地獄絵を表現した。
 工員の宮崎貞雄さん(77)=同県諫早市=は、浦上駅に近い三菱製鋼所=地図(12)=で被爆し、山側に走った。見上げた空は「真っ黒の中に太陽だけが真っ赤な玉となって浮かんでいた」。
 陣野シズエさん(71)=同=は、竹の久保町の防空壕(ごう)近く=地図(13)=で遊んでいた。「B(B29)の音がどんどん大きくなって壕に逃げ込んだ途端に爆発した」。全身が真っ黒になった母もたどり着いた。2歳の妹は乳をやろうと名を呼ぶ母を怖がって、近づかなかった。
 上川仁さん(70)=福岡市西区=は、長崎市稲佐町の自宅近く=地図(1)=で被爆。空襲を告げる鐘が鳴り、5歳の妹の手を取って150メートル離れた壕へ避難中だった。閃光(せんこう)の直後、ザボンの木の陰に身を隠した。爆風で手を離してしまった妹はれんがや瓦の下敷きになった。
 井上勇さん(74)=千葉県市川市=は、市立商業学校近くの防空壕=地図(14)=に避難した。壁に何度も頭をぶつける男性がいた。「ルーズベルト(開戦時の米大統領)のバカヤロー」と、うわごとを言っていた。
 動員先の川南造船所=地図(7)=から爆心地近くの自宅=地図(15)=を目指しながら、斎田一也さん(74)=福岡県筑前町=は、次々に被爆の痕跡を目撃した。缶詰工場でドラム缶が爆発して中空に舞い上がった。畑に黒くて丸い物がごろごろと転がっていた。茎も葉も焼き尽くされたカボチャの実だった。

 ○焦土をさまよう人々 「水、飲みたいよ」言い残して4歳は
 被爆者たちは水を求め、焦土をさまよった。
 道上昭雄さん(76)=名古屋市南区=の自宅=地図(16)=は爆心地から500メートル。8月9日朝、切符を受け取りに約3キロ離れた知人宅に行き、2時間半後に戻った時、自宅は崩壊していた。4歳の弟は「水、飲みたいよ」と訴えて息絶えた。母と妹は自宅の下敷きになって死亡。11歳の弟も一緒に出かけた父も行方不明になった。
 大橋工場=地図(3)=で被爆した豊田嘉幸さん(77)=東京都足立区=は、約20キロ離れた大村海軍病院に運ばれた。
 「きれいな水を用意したと言われ、ジョッキに1杯飲んだ。目覚めて、言われた。『あなたは助かったけれど、みんなは外のトラック。末期(まつご)の水を飲んでね』」。通りがかりの男性に「新型爆弾だから水を飲んではいけない」と言われた女性(76)もいた。
 福島康人さん(76)=神奈川県相模原市=は、長崎市住吉町の住吉トンネル工場=地図(17)=近くで遺体の収容作業をした。「焦げた部分が崩れ落ち、真っ赤な内臓が出てきた。古井戸の水をわかして飲んだが、水位が下がると死体が出てきた」
 県庁職員の岡橋恒夫さん(80)=横浜市磯子区=は、庁舎2階の秘書課で被爆した。永野若松知事ら幹部は長崎市立山の防空本部=地図(18)=にいた。
 翌日、爆心地・浦上を歩いた。土手に死体や重傷者が横たわっている。「水をください」「助けてください」。何も手だてがなかった。隣を歩く老人が「地獄だ」とつぶやいた。
 ○救護所にあふれる被爆者 患者の体液なのか、布団通して畳もぬれる
 臨時救護所の新興善国民学校=地図(19)=で、負傷者の世話に追われた福井キミさん(82)=福岡市早良区=は、長崎市出島町の保健婦養成所=地図(20)=で被爆。患者から「ピカドン」という言葉を聞いた。「潮騒のようなひそやかなざわめきの中から、それは際だって、怨念(おんねん)のように私の鼓膜とこころを打った」
 笹浦登さん(70)=東京都東村山市=は、母が自宅で、背中にやけどを負った知人に治療を施す光景を覚えている。「薬は赤チンキだけ。ジャガイモをすって患部に当て、少しでも楽にしようとしたが、体液なのか、布団を通して畳までぬれていた」
 大村海軍病院で傷ついた人たちを迎えた小嶋武さん(80)=熊本市=は衛生兵の練習生。搬送や衣服の交換、介護、消毒、死体処理などで走り回った。
 灰色の街に、火葬の煙が幾筋もたなびいた。
 山口美代子さん(74)=福岡市南区=は、銭座(ぜんざ)国民学校=地図(21)=の教頭の父を、校庭で火葬にした。教室から机やいすを出し、灯油をかけて燃やした。投下翌日の8月10日。中学3年生の久松勝見さん(77)=東京都八王子市=は、軍の指示で市中を行進した=地図(22)。「女性の吹奏楽隊の後を30人ほどの中学生。脇で馬に乗った将校が『いまだ戦争は終わっていない。皆立ち上がれ』と叫んだ。火葬場の中の行進だった」
 ◇「即時降伏しないと、原爆ますます猛威」 装置内に、米開発者が手紙
 原爆投下の際、落下傘で長崎に舞い降りたラジオゾンデ=写真、長崎原爆資料館提供=の内側に、手紙が張り付いていた。米国の物理学者が、東京帝国大の原子物理学者、嵯峨根(さがね)遼吉博士にあてた。原爆の開発成功を知らせ、日本の指導者に降伏を促すよう求める内容だ。
 長崎市外の第21海軍航空廠(しょう)に所属していた益子賢蔵さん(82)=水戸市=は原爆投下の翌日、航空廠の被災調査委員会の一員で長崎市に入った。1週間ほど調べるうち、手紙に出会った。「アトミック・ボンブ(原子爆弾)と書かれているのを読んで、戦争は終わりだと思った」
 「君が米国滞在中の同僚だった3人の友より」と始まる手紙は、テニアン島で原爆を組み立てた科学者3人が書いた。広島に原爆を落とし、さらにもう1発を投下すると記し、「日本が即時降伏しないなら、原爆の雨はますます猛威を加えるだろう」と結ばれていた。
 手紙を翻訳し、戦争終結の必要性を書いて、終戦直前の8月12日に大本営に送った。「当時は反軍思想と思われる内容だが、死を賭して送った」
 手紙を書いた物理学者の一人、フィリップ・モリソン博士は94年、朝日新聞記者のインタビューに「原爆を組み立てた後、書こうと決めた。それが我々にできた唯一のことだ」と語った。
 ◇「小さな出来事」生死を分けた 今も「自責の念」消えず
 ほんの小さな出来事が生死を分けた例もある。中学2年生だった吉田一人さん(73)=東京都杉並区=は60年後の今も、自責の念を消せずにいる。
 8月9日朝、切符を買うため長崎駅の窓口に並んでいた。自分の前に40〜50人もいた。空襲警報が鳴り、列は崩れた。約30分後、警報解除と同時に窓口に走ると、今度は前から10人目だった。切符を買って下宿に戻った頃、駅で多くの犠牲者が出たと知った。
 「うまく逃げた」と、被爆直後は思っていたが、次第に心が重くなった。「自分が列の前の方に入ったから、代わりに亡くなった人がいる」。不運にも命を落とした人たちの無念を忘れたことがない。
 「家で靴に履き替えてきなさい」。爆心地から1・4キロの兵器工場にいた西野美津子さん(76)=長崎県大村市=は、女性教師に言われた。空襲警報に慌てて壕に走り込んだ時、新品のゲタが二つに割れてしまったからだ。
 午前10時ごろだった。裸足で約1時間かけて家に戻った。玄関で白い運動靴に足を入れた瞬間、辺りが白くなった。工場では同級生ら約150人が死亡した。「ゲタが命をくれた」と思っている。
 北野キミエさん(76)=東京都新宿区=は8月1日まで、爆心地から1・7キロの兵器工場で働いていた。だが、父が動員解除を願い出た。爆心地から7キロの姉の疎開先にいた8月9日、父は消息を絶った。「生き延びたのは父のおかげ。ありがとうと言いたかった」
     *
 掲載したモノクロ写真は、朝日新聞のカメラマンが撮影した。
 爆心地のパノラマ写真を撮ったのは出版写真部(東京)の松本栄一氏。1945年8月25日、科学朝日の記者と一緒に列車を乗り継ぎ、4日がかりで長崎に着いた。9月上旬には広島に移動した。
 西部本社(福岡県小倉市)写真部の富重安雄氏は、8月23日に長崎に入った。自身も長崎の原爆で義兄一家7人を亡くしている。
 この年、広島、長崎を撮影した本社カメラマンは7人(すべて故人)だった。
 イラスト地図の作製には、長崎平和推進協会・写真資料調査部会の協力を得た。