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紙面から from Asahi Shimbun

【(原爆をたどる旅 60年目の伝言:1)奪われた光 暗闇、わが子と生きた 】 (2005年7月30日 朝刊 31面 【大阪】)

私は胎内被爆者です。母は暗闇の生活が60年も続いております。
 ――被爆60年アンケートの記述から
   *
 真冬の朝、「闇」の中でかん高い産声が響いた。母は手探りで我が子を見つけ、顔をなでた。46年1月17日、広島市西部の民家。「あの日」から5カ月後だった。
 福地トメ子さん(86)は45年8月6日朝、食糧を分けてもらうため、市東部の実家へ向かい、広島駅前を歩いていた。
 前を行く3人の兵士が「B29だ」と言った。青白い光を見た瞬間、まるで100人もの人から一斉に砂をぶつけられたような感覚が襲った。それから世界は真っ暗になった。べっとりと何かが顔につき、ぬぐうと、両目から血が出ていた。
 「火事だ」と叫んで逃げる足音。「痛いよ」といううめき声。通りかかった男性の腕を必死でつかみ郊外へ逃れた。
 最初は、そのうち治ると思っていた。3カ月後に岡山の病院に入院し、左目に柿の種ほどのガラス片があるのがわかった。右目は治療すれば少しは見えるかもしれないと医師は言ったが、蓄えに余裕はなかった。
 広島へ戻る貨物車両のなかで、付き添ってくれたトメ子さんの母は突然口を開いた。
「これからどうしてやっていける。一緒に飛び降りんか」
 家で待つ5歳の長男と3歳の長女、そしておなかにいる子。トメ子さんは首を横に振った。

   ■

 胎内の子とともに選んだ生きる道。だが、次女の美津枝さん(59)=現姓寺田=が生まれてから、闇の中の子育ては困難を増した。
 乳首をくわえさせようと、小さな唇を何度も探した。ごはんを炊く時、火に近づきすぎて前髪を焦がした。八百屋では他の主婦と店主のやりとりに耳をそばだて、並んでいる野菜を知った。
 それでも美津枝さんの顔をさわり、指先にほおの揺れを感じたときは「あっ、笑うとる」と、喜びがこみ上げた。
 48年に三女、50年には次男を出産した。やはり被爆した夫(86年死去)は、トメ子さんを献身的に支えてくれた。
 69年11月2日、美津枝さんの結婚式の日。「お母さん、こちらへ」。美容師に手を引かれ、トメ子さんは娘の角隠しにそっとふれた。遠慮がちな母のしぐさに美津枝さんは「ありがとう」という言葉が声にならなかった。涙をこらえた。
 原爆の爆風はガラス片を散乱させ、多くの人の視力を奪った。しかし、盲目になった人がどれだけの数に上るのか、今も分からない。

   ■

 広島市西区に長男夫婦と暮らすトメ子さんを訪ねた。1日のほとんどをラジオを聞いて過ごすという。めったに口にしないという原爆への感情を聞きたかった。「あれさえなければ……。いいや、思うちゃいけん。たくさん死んだ人がおるのに、(私は)生き残ったんじゃけえ」と答えた。
 1枚の写真を見せてくれた。兵隊として戦地へ赴いた夫へ送った写真だ。「長女がにこっと笑っているでしょ。私が着物を着てだっこして、兄ちゃん(長男)がそばに立って……」
 撮影したのは被爆の3年前。目が見える時に撮った最後の写真の記憶は驚くほど正確だった。
 被爆60年となる今年8月6日、トメ子さんは自宅でいつものように亡き人々に手を合わせる。
 気丈な母の傍らで美津枝さんは時折涙ぐんだ。「私は60年、光のある人生を送ってきた。もう十分。できるのなら片方の目を母にあげたい。そして私の顔を見てほしい」(翁長忠雄)

   ◇

 朝日新聞社が今春実施した被爆60年アンケートに、1万3204人が回答を寄せた。過半数が、心の支えとなっているものに、「家族との生活」をあげた。自由記述欄の言葉を出発点に、それぞれの60年を訪ねた。