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紙面から from Asahi Shimbun

【(原爆をたどる旅 60年目の伝言:2)自分の像 父の面影見つけた 】 (2005年7月31日 朝刊 35面 【大阪】)

 爆心から300メートル。当人から意見を聞くのは困難です(長男代筆)
 ――被爆60年アンケートの記述から

 浦上天主堂(長崎市本尾町)から約400メートルにあった小川繁さん(76)=東京都練馬区=の自宅は、「人形屋さん」と呼ばれていた。山あいの静かな街で、父の彫刻家、奥村不二彦さんが、聖像作りを続けた。
 家族は弟、妹との5人。その家は爆心地から約300メートルという、原爆が炸裂(さくれつ)した地点の真下近くに位置していた。
 45年8月9日。繁さんは家から約4キロの兵器工場にいた。被爆したが無事で、夜、焼け跡になっていた自宅に帰ってきた。2歳の妹は柳行李(やなぎごうり)の中で外傷がないまま息絶えていた。8歳の弟は黒こげで、父の着物をまとって死んでいた。父も警防団の詰め所で被爆、48年の人生を終えた。  母は、放心状態で横たわっていた。
 「防空壕(ごう)がなければ母も死んでいた。父は母を助けるために壕を造ったようなものだ」と、繁さんは今になって思う。
 前年の秋に父が掘り始めた未完成の壕で、あの日朝、母は初めて壕に入り、一番奥で掘っていたのだった。

  ■

 47年春、繁さんは中学卒業を機に上京した。家族を失った長崎から離れたかった。55年に結婚し、放射線技師をしながら子ども4人を育てた。
 母も呼び寄せた。でも、故郷の自宅跡にだけは行く気になれなかった。
 時折、原爆が落ちる以前の情景が思い浮かんだ。父は夜中、子どもを残し、母と2人で月見に行くような芸術家肌だった。好きな相手にしか作品を譲らない。母は質屋に通い、外国人神父らの来客を笑顔で迎えた。
 たくさんあった父の作品は、どこでどうなったのだろうか。それが、いつも気になっていた。
 00年、足腰の衰えを感じ始めた。「体力がある間に親の足跡をたどりたい」。以来、両親の出生地を訪ね歩いた。
 昨年10月、熊本県天草町。見ただけで、すぐにわかった。丘の上に立つ大江天主堂で見つけた3体の聖像。その台座に「長崎 不二彦 作」とあった。あどけない顔をした約80センチの子どもの像は、まぎれもなく、8歳の自分だった。
 遠い記憶がよみがえった。67年前、モデルとして父と向き合った。ポーズが崩れると「手を動かすな」と怒鳴られた。
 「父との生活や原爆のことが、夢か幻のように感じていた。でも、像はすべてが現実だったと教えてくれた」

  ■

 8年前に老人保健施設に入った98歳の母に長崎のことを話しかけることはない。感情の起伏が激しくなる母を見たくないからだ。繁さんは母のアンケートを代筆した。
 「人形屋」のあった場所へ記者が行くと、企業の社宅になっていた。角を曲がると約50メートル先に平和祈念像が見える。
 彫刻家、北村西望(1884〜1987)が被爆10年の夏に建てた。繁さんの父は長崎出身で年上の北村のことを慕っていた。像は、天を指す右手が原爆の脅威を、水平に伸ばす左手が平和を示している。
 今年8月9日、繁さんは像の前である平和祈念式典に出席しようと決めている。おそらく最初で最後。父や妹、弟たちにお別れを言うつもりだ。

  ◇

 取材後、小川さんからの手紙に「はじめて十分に往時の体験をお話し出来たと思っております」と書かれていた。60年間、消せない記憶と闘ってきた人生を心に刻んだ。(野瀬輝彦)