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紙面から from Asahi Shimbun

【(原爆をたどる旅 60年目の伝言:3)二つの遺言 母との指切り、越えて 】 (2005年8月1日 朝刊 34面 【大阪】)

 広島で被爆した母と兄嫁は、相対する二つの遺言を残しました。
 ――被爆60年アンケートの記述から

 学校から帰ると、お下げ髪の娘は、泣きはらした顔で母に駆け寄った。母は右手を出して指切りげんまんし、優しく、しかし、強く言った。
 「ピカのことはもう誰にも言っちゃあいけん」
 終戦から5年目の初夏だった。中学1年の神戸(かんべ)美和子さん(67)は母と広島を離れ、岡山県の旧城下町で暮らしていた。
 ある朝、ラジオが朝鮮半島で戦争が始まったと伝えた。「あの恐ろしい爆弾が使われる」。教室で美和子さんは、まだ記憶に新しい故郷での体験を同級生に語り聞かせた。「赤紫色の光が降ってきてね、ガラスが頭に突き刺さったんよ。友達は皮膚がむけて幽霊みたいにさまよって……」
 「ピカちゃん」「原爆さん」。そんなあだながついたのは数日後だ。ひそひそ話の輪ができ、気がつくと独りぼっちだった。仲良しのタカちゃんが目をそらして言った。
 「原爆におうた人は、体から目に見えん放射能が出て、一緒に遊んだら病気がうつるんよ。近づいたらあかん」
 12歳の心に、一生残る傷がついた。母との指切りの後、神戸さんは被爆体験を封印した。

   ■

 19歳の時、東京の大学病院で看護師になった。職場では「岡山出身」で通した。
 白衣を着て3カ月後の57年春、入院患者の妻から「いとこに会って」と持ちかけられた。神戸さんは反射的に「私は被爆したから結婚できないんです」と答えた。自分には体の弱い子しか産めない。だから隠せないと思った。それでも紹介された商社マンは、原爆を話題にしなかった。1年半後、その男性、春彦さん(76)と結婚した。
 4人の子は健康に恵まれた。被爆を忘れることが家族の幸せと信じた。
 だが、「過去」は突然戻ってきた。
 新築の自宅を次兄の妻が初めて訪れた。ほおから首筋にかけてケロイドがある。あの日、神戸さんが爆心から4キロで被爆したのに対し、義姉は500メートルで被爆した。
 「ねえさん、外に出るのはやめて」。近所の目に触れないよう神経をとがらせ、我が子には「おばちゃんは火事に遭ったのよ」と説明した。
 5年後の82年3月、義姉は末期がんで入院。見舞った神戸さんを、見たことのない厳しい顔で迎えた。
 「ピカのこと、まだ隠しとるんね」。そう言うと義姉は寝間着を胸までまくり上げ、全身のケロイドを見せようとした。
 「この体を写真に撮ってみんなに伝えんさい。怖がられてもいい。子どもがかわいいなら、ピカをやめさせにゃ」
 1週間後、義姉は51歳で息を引き取った。


   ■

 その時、どうして手を挙げたのかわからない。84年夏、東京の大学で開かれた戦争体験をテーマにした母親たちの集まりで、神戸さんは閉会間際、会場からの発言を促す司会者に反応した。
 「私は被爆者であることを黙っていました。幼い日、まるで汚いものを見るように遠ざけられたからです」。教室での告白から34年ぶりに口にする体験。約200人の視線が集中した。
 神戸さんを都内の自宅に訪ね、母への現在の思いを聞いた。「母の言葉は私への愛情だったと今も思っています」
 4人の子供は成人し、孫が5人いる。いずれにも被爆体験を話した。8月2日、広島市である平和集会で、孫(13)が作った紙芝居が上演される。題名は「おばあちゃんの指切りげんまん」。(武田肇)