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紙面から from Asahi Shimbun

【(原爆をたどる旅 60年目の伝言:4)命を継ぐ 親の最期に“生”みる 】 (2005年8月2日 朝刊 34面 【大阪】)

 母は爆風の衝撃で弟を産み、へその緒をつけたまま帰ってきました。
 ――被爆60年アンケートの記述から

 熊本市で夫と暮らす石原照枝さん(69)は、母ダイさん(当時43歳)の「あの日の姿」を消化できないまま年月を重ねてきた。
 長崎に原爆が投下されて4日後の8月13日夕。石原さんの母は父に抱えられ、焼き魚のような姿で長崎市郊外の疎開先に戻って来た。「照ちゃんはどこ」。空を泳ぐ黒い両腕に無数のガラス片が光り、ウジがうごめく。「お母さん」と胸に飛び込めなかった。
 母は妊娠8カ月だった。長崎市の爆心から500メートルの自宅屋上で洗濯物を干していて、爆風で吹き飛ばされた。
 父が自宅の焼け跡で発見した時は、赤ん坊が飛び出していた。10月に生まれるはずだった男の子。息はなかった。母は、へその緒でつながった桃色の塊を離そうとしなかった。

 ■  ■

 「石炭みたいにね。被爆から1週間、燃え続けて死んだとよ」。終戦の翌日、息を引き取った母の体を起こすと、布団と畳に体をかたどるような黒い跡が残っていた。
 自宅にいた姉、妹、弟も即死。偶然、長崎市外の疎開先にいた石原さんは無傷だった。父は戦後、再婚を4度繰り返して疎遠になり、一家は完全に崩壊した。
 「もう一度、家族を築きたい」というのが、9歳で家族を奪われた石原さんの夢だった。
 学校教諭の寿幸さん(74)と出会ったのは25歳の時。だが、入市被爆による後障害に悩まされ、まともに生理が来なくなった。30歳で卵巣結核にかかり、4分の3を摘出。10年間、不妊治療を続けたが、子供を産むことはできなかった。
 「死にたい」
 そう思った時に浮かんだのが、黒焦げの母の姿だった。
 「焼けこげた母が怖くて、近づけないまま死なせてしまった。なぜ、あんな恐ろしい姿を見せに帰ったのか。親はこんなにも子を愛している、だから強く生きなさい、と伝えようとしたのではないか」

 ■  ■

 長崎市西小島2丁目の内田美喜江さん(76)は、約4キロ先に原爆が落ちた夜、高台の自宅近くから燃えさかる街を見つめていた。
 「帰ってきたぞー」。叫び声が集落に響いた。
 変わり果てた姿で戻ってきたのは、隣に住む新婚夫婦の夫だった。夫婦は三菱の徴用工で、長崎・五島の出身だった。
 夫は風船のような体で畳の上に寝かされていた。ぬれふきんを胸に当てると、ジュッと音がした。
 「息子は無事なのか。倒れ込む前に一言、そう言ったと」と内田さんは思い出す。息絶えた夫の傍らには数日前に生まれた赤ん坊が寄り添うように眠っていた。桜色の肌がみずみずしかった。
 赤ん坊を抱いて、妻は数日後に姿を消した。その後、地元で2人を見た人はいない。
 戦後、美喜江さんは同じ被爆者の保信さん(76)と結婚した。56年に妊娠8カ月で2キロ足らずの未熟児を産んだ。紫色の長男は何度も呼吸が止まった。「私の命をやるけん」。涙ながらに叫んだ時、あの父子を思い出した。一人息子の裕(ゆたか)さん(49)は今、大学生2人の父親になった。
 《どこかで60歳になっているのでしょうか》
 あの子に伝えたい。「あなたは、お父さんに命をもらって生きているんよ」

   ◇

 東京に住む私の母は今年、60歳になる。曽祖父は長崎で被爆。その娘である祖母が実家に疎開していたお陰で、私が存在する。石原さんと内田さんに会ううち、思った。命を継いでいる限り、戦争を知らない世代などいないと。(市川美亜子)