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紙面から from Asahi Shimbun

【(原爆をたどる旅 60年目の伝言:5)再生の花 慕われて教壇に35年 】 (2005年8月3日 朝刊 26面 【大阪】)

 頭の髪は抜けて坊主頭になり、顔は倍にも腫れ上がっていた。
 ――被爆60年アンケートの記述から

 浜辺には200人以上の島民が集まっていた。爆心から1・5キロの広島市天満町の動員先の工場で被爆した松井サホ子さん(旧姓橋本、75)は、45年8月12日朝、故郷の下蒲刈(しもかまがり)島(広島県呉市)に船で運ばれてきた。地元の人は、一様に自分をみて驚いた。
 当時、山中高等女学校(広島市)の3年生。学校から「学徒は全滅」と聞き、両親は前日、寺で葬式をあげていた。
 「死んだはずの娘さんが帰りなさった」
 15歳の女学生の姿は変わり果てていた。全身が赤黒く膨れ、両手の皮膚がツメ先から垂れ下がる。胸と背は焼け、両足の太ももは骨が見えるほど深くえぐれていた。
 下蒲刈島は広島から南東約30キロの瀬戸内海にある、当時人口約4千人の小島。自宅での療養生活で、両親が気にしたのは自分に容姿を見させないことだった。
 母は家中の鏡を隠し、ガラス障子に和紙を張った。毎日つくるみそ汁は、顔が映り込まないよう具だくさんにした。「どこも変わっとらん」と、言って聞かせた。
 でも唇は指で触れるとイチゴを並べたようにかさぶたが覆っているのがわかった。近所の家の窓ガラスに映った自分は左手がくの字に変形し、両腕にナマコをのせたようなケロイドがあった。
 「もう生きていても仕方ない」。ある夜、蚊帳のすそをたぐりよせ、明かりの炎を燃え移らせた。その直後、父が部屋に飛び込んできて素手で消し止めた。
 「ごめんなさい」。父の前で、松井さんは寝たまま涙ぐんで言った。

     ■

 吹っ切れるきっかけは、一番嫌だったはずの「人前に立つ」仕事に就いてから訪れた。
 48年春、18歳になった松井さんは、島の小学校の代用教員に迎えられた。担任した3年生の児童17人は、形の変わった自分の左手を奪い合うように自然に触った。避けもせず、むしろ「抱き上げて」とせがんだこともあった。
 被爆の影響で嘔吐(おうと)が続くため、約1年後に辞表を出そうとすると、児童たちが「やめちゃいけん」と訴え、「ぼくらが卒業するまで先生やって」と言った。「続けよう」。必要とされている自分の立場を、島の子どもを通じて知り、35年間、教壇に立った。

     ■

 夏の太陽が照りつける7月、島で暮らす松井さんを訪ねた。海が見える自宅に、教え子の黄ばんだ作文を保管していた。
 「先生の手にはケロイドがあります。その手できれいな字をかきます」(1年生女児)
 「ぼくは先生のやけどから、ぜったいに戦争をくりかえさないと考えた」(5年生男児)
 下蒲刈島には、毎年12月、畑や庭先に寒咲きのスイセンが花開く。松井さんはそれを見ると、60年前の冬、母が枕元に置いてくれたスイセンを思い出すという。一輪の花を咲かせた球根は、半分以上が崩れていた。
 母はやさしく「踏みつぶされたスイセンでも、こんなきれいな花を咲かせる。サホ子も必ず咲かせられる」と言った。
 松井さんは言う。
 「もし誰かを恨んで元の体に戻してもらえるなら、恨みだけの人生を過ごしたでしょう。私の命を細い糸のようにつないでくれた人に感謝し、原爆に遭ったことで得た人生もあったと思うようにしています」
 6日、島の保育園で被爆体験を語る。
 広島市によると、10代の時に被爆した少女の数は、現在生きている人だけで1万人以上(爆心から3キロ以内)にのぼる。(武田肇)