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紙面から from Asahi Shimbun

【(原爆をたどる旅 60年目の伝言:6)当時は胎児 実は被爆者、世界一変 】 (2005年8月4日 朝刊 29面 【大阪】)

 被爆当時・胎児 養父母が亡くなり、兄弟から知らされた。
 ――被爆60年アンケートの記述から

 黄色くなった紙にはクリップのさびがついていた。ずいぶん前に書かれた書類のようだ。
 岩崎章さん(59)=東京都世田谷区=は、いとこの女性から渡された紙を眺めていた。
 「被爆状況証明書」とあり、「被爆当時、6ケ月位の胎児でした」と記されている。申請者の欄を見て驚いた。
 「岩崎章」
 いとこは自分の目を見て、「あなたは被爆者なのよ。原爆投下の日、お母さんのおなかの中にいたの」と言った。
 いとこが突然、家を訪ねてきたのは86年冬の終わるころ、岩崎さんが40歳のときだった。その話によると、母は広島で被爆し、終戦後間もなく出身地の横浜に戻った。45年11月に岩崎さんを出産し、2カ月半後に亡くなった。戦後、旧満州から引き揚げた父は51年に死去したという――。
 母だと思っていた人は叔母だった。「養子だと絶対に言わないで」と言っていた叔母が約3カ月前に亡くなったため、いとこのふりをしていた姉が真実を告げたのだった。
 18年前の大学卒業の際、友人と旅行で一度行っただけの街。原爆と全く縁のない人生を過ごしてきた身に、被爆者の重みが突然降りかかった。

   ◇

 最初は現実を受け入れたくなかった。被爆するとはどういうことか。体は健康だ。姉は被爆者健康手帳の取得をすすめた。将来、健康に異変が起きるかもしれないと、「一日も早く教えたかった」という。
 3年後の89年、手帳を取得した。養子だったショックと、被爆者という戸惑いは消えなかった。
 数年が過ぎたある日、突然、「あの時に本を買った」と思い出した。友人との旅行で原爆資料館に立ち寄った時のことだ。書棚の奥から出てきたのは「ヒロシマ原爆参考資料集」(68年発行、朝日新聞社・広島平和記念資料館編集)という冊子だった。
 廃虚となった市街地やケロイドの残った皮膚、脱毛した少女の写真が、胸に飛び込んできた。
 「被爆者でなかったときに見た衝撃が1としたら、100ぐらいの衝撃があった」という。

   ◇

 「我が家」は爆心地から約2・6キロ、広島駅の北側の東練兵場のそばにあった。
 5〜6年前から母の被爆状況を詳しく知りたくなり、いとこと思って付き合っていた斎藤孝さん(75)ら2人の兄から聞き取り始めた。
 45年8月6日朝、庭で畑仕事をしていた母は爆風で数メートル吹き飛ばされた。顔が真っ赤になるほどのやけどを負いながら、崩れた屋根の下から義母と3人の娘を助け出した。練兵場には重傷者が運ばれ、火災を免れた自宅は救護所になった。子を宿していた母は腹帯を負傷者の包帯に使い、寝る間もない救護活動が1カ月以上続いた――。
 岩崎さんは、聞き取った母の姿を頭のなかで構築し、書いた。目に浮かぶようだった。「絶対に風化させてはいけない」という題をつけた手記は04年、「世田谷・被爆者の声を記録する会」の証言集に掲載された。
 3年前から高齢の被爆者の証言を、ビデオに収め始めた。「僕には被爆体験はない。だが、被爆者として原爆の惨状を後世に伝えねばという、いてもたってもいられない気持ちだ。極限状態で亡くなった母の無念を晴らしたい思いもある」
 6日、自宅の跡地を初めて訪ねる。自分が被爆した地に立つことで、わかることがあるかもしれないと思っている。
 岩崎さんの母の写真を見せてもらった。着物姿でややうつむいた顔は、やさしそうだった。
 (翁長忠雄)=おわり