--韓国外相時代の95年に戦後50年と日韓国交正常化30年の節目を迎えましたが。
対日関係を振り返ると、絶えず「過去の亡霊」に引っ張られた思いがあります。例えば駐日大使時代、日韓議員連盟会長だった故竹下元首相から「日中国交正常化20周年でも節目の事業をした。100億円ぐらいで何かやろうや」と言われ、何かしたいと考えていたら、日本はそれどころではない。国会決議をするとかしないとか、村山首相談話の内容とか、独島(竹島)の領土問題も蒸し返されて。
でも、同年末のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の日韓首脳会談で、歴史共同研究の推進が正式に取り上げられた。今も続いているでしょう。こういうことを地道に続けるしかない。
--日韓の歴史認識のずれをどう考えますか。
毎年、8月15日が来ると、憂鬱(ゆううつ)になります。韓国や中国では戦勝国的なお祝いの日ですが、日本では、靖国神社を国会議員や大臣が参拝する。民族主義のぶつかり合い。私は、日本が再び軍国主義化しつつあるとは思わないが、たまに顔を出すとすれば、その触媒になるのが靖国神社でしょう。
北京の歴史博物館などに行って目に入る看板に「前事不忘、後事之師」というのがあります。過去を忘れず未来への戒めとするという意味ですが、やはり過去はなかなか忘れることができないともいえます。
日本の考え方からすれば、「靖国で会おう」と言って亡くなっていった人を祀(まつ)る靖国をとやかく言われたくない心境も当然です。しかし、日本に問われるのは、A級戦犯を祀る靖国に嫌な思いの残るアジアを少しでも振り向くか、無視するかでしょう。
靖国に代わる追悼施設について福田官房長官の諮問機関が昨年末、「国立の無宗教の戦没者追悼施設が必要」という報告書を出しましたが、すぐさま政界の実力者らがダメだと言って、見通しが立たない。外国からの賓客が表敬訪問できる追悼施設ができればいいと思います。
中国は今、第4世代といわれる新勢力が政治の中心になり、韓国も「386世代」と呼ばれる30〜40代が社会の主流になりつつある。植民地支配にしろ、慰安婦問題にしろ、戦争の記憶が残る被害者の生存中に解決されるのが望ましいのですが。
--アジアの将来像をどう描きますか。
現代史の中では、日本の存在が大きく、「共存繁栄のための先達」であると同時に、苦い結果を招きました。18〜19世紀に西洋から新たな文明が東洋に来て、日本は西洋文明の取り込みで一歩先んじた。韓国、中国などは、日本をモデルに自国の発展を目指した。
日本にも当時は、アジア全体の繁栄を願う人たちがいた。しかし、その終着点は何だったでしょう。覇権主義であり、朝鮮半島や台湾の植民地化でした。アジアの期待は裏切られた。
その激動期で個人的に連想するのは、明治維新の元勲、伊藤博文を中国・ハルビンで暗殺した安重根(アン・ジュングン)義士です。安は、収監された旅順の監獄で「東亜平和論」を語ったことがあります。
韓国とか中国に押し寄せる欧州の勢いにどう対応し、東洋の平和と独立を守るか。旅順は、ロシアが中国から租借していたが、日露戦争で勝った日本が取り上げた。そんな奪い合いはやめて、日中韓3カ国の共同管理下に置こう、共通の通貨もつくって、3国の人々が意思疎通できるように若者に言葉を教えよう、という話です。
ほかに非現実的なことも言っているが、この部分はアジアが求める姿と共通する面もある。今の日中韓の自由貿易協定(FTA)構想や欧州連合(EU)のような考え方が含まれている。
新聞の強み 信じる
--AANの新会長としての抱負は。
新聞の持つ強みと、人のつながりを大事にしたい。新聞の情報力と、その伝播(でんぱ)力は相当なものだと信じている。早く効果的に、時々の問題をどう見るか、どう対応すべきか、最高の方法を探るのが新聞でしょう。その意味で、AANはどんな研究機関よりも優れた面があると思っている。
また、外交も政治も社会も、人間が動かすということ。ある歴史家が言ったことですが「地理(場所)は歴史の舞台を提供するが、歴史をつくるのは人間である」。その通り。アジア各国で将来、オピニオンリーダーとなる人、ジャーナリスト、政府関係者、AANのネットワークを使って共通の問題意識を深めていきたい。
アジアは広い。モンゴルやベトナムにも関心がある。大国インドネシアも。そこまで広げて考えるべきだが、まずは北東アジアを中心に押さえていきたいと思います。
* * *孔魯明氏の横顔
現実主義の日本通
「私の外交官や長官(大臣)時代の過去は非常にナマぐさい。理想も大事だが、最高の善を追求したら何もできない。実際の現象への対処に終始した」。韓国屈指のアジア通、日本通として知られる孔氏は、政治的には中立、現実主義を貫いてきた。
日本の植民地統治下で日本語を習い、韓国語を勉強したのは、小1までの幼少と中1で迎えた終戦後だった。外交官書記官時代に日韓正常化交渉にもかかわった。ブラジル大使、ニューヨーク総領事、初代ロシア大使などを歴任、93〜94年に駐日大使を務めた後、金泳三(キム・ヨンサム)政権で外相に抜擢(ばってき)され、96年まで務めた。
慰安婦問題で、日本が市民基金で被害者へ一時金を支給する打開策を打ち出した時には「公的補償の形を取らない基金は韓国国民の理解を得られない」と支持しなかった。半面、新ガイドライン関連法成立(99年)では「日米安保条約を補完するのが目的で、恩恵を受けるのは韓国であることを理解したうえで問題点を考えるべきだ」と発言。日韓双方の国民感情に配慮しつつ、偏見や暴言に批判も加えてきた。
現在はソウル市にある東国大学日本学研究所長のほか、日韓フォーラム韓国側議長も務める。