 | 楊心怡さん(右)の好きな日本のドラマは「東京ラブストーリー」。母の李秀英さん(中央)は「不倫ものは感心しない」と語る。衛星放送でNHKのニュースを見る祖父の楊徳輝さんは情報が一番早い=台北市安和路で、謝三泰氏撮影
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抗日戦線を戦ってきた国民党政権下では日本語も日本文化もタブーとなった。新たに国語とされた北京語を本省人は、ゼロから習得しなければならなかった。
「台湾語、北京語、英語、日本語をまぜて使いしわが半世紀」という台湾の歌人の思いは、楊さんの実感でもあった。
戦後の教育は中国(大陸)が中心でほとんど台湾の地理、歴史は教えなかった。大陸で実際に体験した日本軍の残虐さをリアルに語った教師もいたという。
楊さんの長男の妻、李秀英さん(51)は「学校から帰れば、父母は日本語を交えて話していた」と日常生活とのギャップを語る。52年生まれの呉念真監督は父親を題材にした映画「多桑(トーサン)」の中で、日本びいきの父を「売国奴」と子がなじる場面を描いた。
90年代の民主化のなかで教科書「認識台湾」が作られ、台湾の歴史や地理を学べるようになった。
楊さんの孫の大学院生心怡さん(24)は日本語を学び、日本のドラマも好きだが、台湾の独自性にこだわっている。「最近は米国人や日本人のまねではなく、自分のテイストのある人が評価される」と、台湾出身で世界的に有名な彫刻家朱銘氏の名を挙げた。
昨年11月台北市内で「日本は東アジアに在るのか?『台湾論』から靖国まで」という座談会が開かれた。中国から社会科学院研究員の孫歌さんが来た。
台湾師範大学で東アジアの流行文化を教える蔡如音助教授も聞きに行った。「流行文化を扱うのに、政治や歴史も見ていくことが必要ではないかと思っている」
会場は「紫藤廬(ズータンルー)」という観光名所にもなっている茶芸館。20年代の日本統治時代の旧官舎である。
インタビュー:侯 孝賢さん 混在から独自の台湾文化を
 | ホウ・シャオシェン 映画監督 47年、中国広東省に生まれ、翌年台湾に移住。台湾ニューシネマの旗手。05年第2
回黒澤明賞。
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日本の大衆文化がアジアに素早く浸透していくのは台湾に限らず普遍的な現象だ。インターネットでどんどん情報を取り入れることができる。
とりわけ、台湾は日本の植民地だったので、「哈日族」が生まれてくる基礎が歴史の中にあった。72年の断交で日本文化も断たれてしまうが、生活のなかに深く日本の文化が浸透していた。例えば「運ちゃん」「おじさん」「おばさん」など、日本語がそのまま使われているし、また、日本の植民地時代の建築がたくさん残っている。そういう中で、「哈日族」という新しい形での受容が始まった。彼らの特徴はすぐに吸収する、その速さにある。
1895年から50年間の植民地統治の後、日本との関係で大きな空白ができた。その時代は米国と一番良かった。日本とはアメリカをはさんでのパートナーだった。当時は米国がすべての主導権を握って台湾を制御していた。
この空白のために、植民地文化というものにたいする真剣な討論がなされなかった。植民地統治時代を生きた人々の「老哈日」とも言える親日感情は、この空白の時間に関係がある。
国民党の2・28事件が起きて「日本の方がましだった」という老人たちの気持ちはよくわかる。実際には植民地時代に反日運動もあったのに、日本の方が良かったと思うようになっている。
私は新作「スリー・タイムズ」(仮題)で、1911年、66年、現代という三つの時代の恋愛を描いた。それぞれの時代の愛を通して、過去を見つめ、今を描く。恋愛もひとつの文化です。
グローバル化が加速する一方で、多元化もする。そのなかで、自分がどういう役割を担うか。台湾独自のもの、唯一無二のものをくみ上げていく。みんなが同じようになるのではなくて、それぞれが、独自なものをつくっていくのが大切だ。
独自なものとは何か。それはものすごく大きく、深いテーマだ。台湾文化はいろいろなものがミックスされてきた。中国もある。日本もある。この混在のなかから、独自の文化をつくり出していければいい。(談)
2006年1月23日
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