中国とインドの台頭は今や国際的注目の的となっているが、この両国をめぐって、最近象徴的な出来事が二つ起こった。
一つはグーグル事件である。インターネットサービスを中国市場に展開するにあたって、米国の大手会社の一つ、グーグルが中国政府の意向に沿って、政府批判の情報流通の抑制を約束したといわれる問題である。情報流通の自由を標榜(ひょうぼう)し、犯罪捜査やテロ活動の関連情報ですら米国政府の介入に難色を示してきた大企業が、中国に対しては「節を曲げた」のではないかと国際的論争の的となった。
グーグル側の抑制が事実なら、情報流通の自由に対する背信であり、巨大な中国市場への進出という経済的利益の前に政治的信条ないし原則を緩めたと言われても仕方がないであろう。このことは、世界の大企業が、中国を経済大国として認知する一方で、中国に対し西側諸国の間でなら当然守るべき国際ルールや道義を必ずしも要求しないとの「ダブルスタンダード」を適用した(またはしかねない)ことを意味している。すなわち中国は、大国であるが故に(そう認知されたが故に)大国としての行動の自由をも認められたことになる。
他方、インドについては、ブッシュ大統領のインド訪問を契機として米印間に原子力技術の供与についての合意ができ、(インドは核不拡散条約に加入していないにもかかわらず)米国はインドに対して民生用核技術の供与を行うという。
ここではインドの核保有大国としての地位が認知され、同時に大国としての行動の自由(核不拡散の無視)が認められたことになったと言える。大国としての地位の認知と大国であるが故の行動の自由の認知という、「二重の認知」がここでも行われている
中国の場合にせよ、インドの場合にせよ、問題となるのは大国の真の条件たる第三の条件、大国としての「責任」がどうなっているかである。
中国は経済面で、世界の貿易経済体制から多大の利益を得ながら、いかなる責任を果たしているのであろうか。依然として「開発途上国」の地位を捨てず、ODA(政府の途上国援助)を受け、また地球温暖化対策についても開発途上国として比較的ゆるい規制を享受し、国連の分担金率も低いままだ。
インドは政治面でいかなる国際貢献を成しとげているのだろうか。核実験を行い、パキスタンとの紛争も解決から程遠い。何よりもインドの標榜する「世界最大の民主主義国」なるスローガンも、制度上はともかく実際を見れば、他の途上国のモデルになり得るとは言い難い。
もとより中国もインドもやがては、見るべき国際貢献を行うことが期待され、今は一種の過渡期であって、この時期には中国とインドを温かく見守り、将来のパートナーとして今からパートナーシップの精神を分かち合ってゆくことが大切で、多少の矛盾や偽善は許されるべきだとの考え方もあり得よう。しかし、それは米国、西欧の論理ではあり得ても、日本の論理となり得るのであろうか。
日本は非西欧の国でありながら歴史的に開発途上国として経済的特権を享受したことはほとんどない。むしろ国際社会において、新参者に対する差別と偏見に対して戦ってきた。また日本は非核三原則を是とし、核実験禁止を訴え、核不拡散を強調している。
そのような日本から見て、中国やインドのような核大国がいつまでも「国」として開発途上国扱いされ、国際責任を十分果たしているとはいい難い状況を容認してよいのであろうか。また、容認するとしても、どの程度、どこの分野で容認してよいのか。そして、その基準を、米国一国のいささか恣意(しい)的な判断にゆだねるのではなく、国際社会全体の合意の下につくってゆく努力の一端を負うことこそ、日本の隠れた使命なのではあるまいか。 (2006年4月19日)