アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴール。
タゴールは1910年代から20年代にかけて4回にわたって訪日したが、その著作『日本紀行』の中で、日本は国民的利己主義を超えた高邁(こうまい)な理念を欠いていると嘆き、日本の「金庫に集められた一番大切なものは、成功という名の成果である」と批判した。
ほぼ同じころ、中国革命の父孫文も、日本人は、文明の核にあるものは物質文明の利便であると考えていると批判し、日本が採り入れるべき欧米文明の核心は、技術にあるのではなく、実は、民権思想であると言い、その上で日本は帝国主義的アジア進出という「覇道」の道をとらずに民権思想に基づくアジアの精神、すなわち「王道」をもって植民地主義を打破すべしと唱えた。
こうした民権思想は、やや違った形でインドのネルーによっても受け継がれた。ネルーは、その著「インドの発見」の中で、経済的、社会的発展が大切と言うのなら英国のインド支配以上に日本の満州占領や韓国統治は実を上げてきた、しかし問題は、人民の権利がどこまで尊重されてきたかである、と主張した。
近代中国を代表する作家魯迅もまた中国の民衆の立場からものを言った。魯迅は日本語による随筆「現代支那における孔子様」の中で、次のように言っている。
成程(なるほど)孔子様は大変な国を治める方法を考察した、併(しか)しそれは皆民衆を治めるもの、即(すなわ)ち権力者達の為(ため)の考案で民衆其(その)物の為に工夫した事が一向ない。
今日、中国とインドは世界の注目を集め、フランスの新聞ルモンドは、シンディア(フランス語のシン〈中国〉とインドの合成語)という表題の社説を載せたほどだ。確かに中印両国の発展はめざましく、両国の関係も大きく改善している。しかし、それは正に中印両国の「経済的成功」という名の下での結果にすぎない。タゴールの先の言葉のように両国は今「成功という名の成果」を誇っている。
しかし、「経済的成功」を超えてこれら両国は、いかなる「精神」を体現し、またお互いに共有しているのであろうか。
タゴールや孫文やネルーが今日存命であったなら、彼らがかつて日本に向けて発した批判を、今や核保有国として軍備拡張に走る自らの国に対してこそ発しないであろうか。
彼らがかつて唱道したアジアの「精神」を今日体現している国はどこなのか。またそうした精神の今日的意味は何か。
それは日本から見れば一部の人々の言うように自然と人間の共生の精神であるかもしれず、あるいは人間関係における和の重視なのかもしれない。確かに地球温暖化問題がますます深刻になっている昨今、そして、水資源問題が心配されている今日、自然環境と人間活動の共生の精神はますます重要になっている。またテロや民族紛争がいっこうに鎮まらない世界で、和の精神はいくら強調しても強調しすぎることはない。しかし、深刻な社会問題や国内の亀裂に悩む今日の中国やインドにそうした価値の共有を訴えても、理屈はともかく現実には(少なくともここしばらくの間は)有効ではなかろう。
むしろ、今、この時点でアジアの政治指導者が共有すべき精神とは、現代的意味での「徳」、すなわち権力の内的抑制のための倫理ではないか。西欧的民主主義という概念の影響で、権力を制度的に抑制しようとすることを強調する余り、指導者の「徳」、すなわち自己抑制の必要性に対する国民一般の意識が薄れ、政治指導者も真の謙虚さや「徳」を失いつつあるように見える。アジアに必要な精神とは、実は、こうした内的抑制が権力者自らの内部に植えつけられるような思想なのではなかろうか。そして、それこそが制度的民主主義を補完するアジアの精神ではあるまいか。
2006年 10月18日