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朝日新聞アジアネットワーク
AAN発

朝日アジアフェローのコラムやシンポジウムの詳報

アジアの脱亜 欧米との対立概念超えて

藤原 帰一/東京大教授、朝日アジアフェロー世話人

2007年05月14日

写真:藤原帰一さん

 日本でアジアを考えると言えば、ああ、あれか、と思うのが人情だろう。昔なら米欧本位の世界、いまならアメリカ主導のグローバル経済、結局のところ、欧米社会に抵抗するときに日本で持ち出される言葉がアジアだった。日本がアジアを代弁する役を果たすことも、当然のように考えられていた。ここでいうアジアとは、現実の地域というよりは、欧米の対極として立てられた理念である。

 その反対の議論もあるわけで、日本がアジアから脱すべきだという福沢諭吉の脱亜論に始まり、日本はアジアよりも欧米とのつながりを考えるべきだという議論も繰り返されてきた。アジア外交ではなく日米同盟だという声は、その現代版といえるかも知れない。

 こうなると、アジアはずいぶん空疎な観念になってしまう。だが、それでもなお、アジアを考える意味は残されるのではないか。過去10年、朝日新聞アジアネットワーク(AAN)の企画に加わってきた日本やアジア地域の学者、専門家、記者らが集まってこのほど開かれた「朝日アジアフェロー」の第1回フォーラムに出席して、そう思った。

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 まず、参加した約50人の誰ひとりとして、昔ながらの「アジア語り」をしなかった。アジアの一員としての日本という人もいなければ、グローバル化に立ち向かうアジアへの呼びかけも聞こえてこない。

 むしろ、榊原英資氏(早稲田大)はアジアを概念として語ることは不毛だと指摘し、趙景達氏(千葉大)は日本がイニシアチブをとるアジアを中国や朝鮮は疑ってきたと述べた。日本の自画像を投影するような都合の良い「アジア語り」を拒否することがこの会合の出発点だった。

 抵抗勢力としてのアジアを語ることは不毛でも、現実のアジア地域は存在する。それは共通の理念や団結とはほど遠い世界だ。 すでに日本がアジアを代表して当たり前という時代は終わり、東アジア共同体構想では主導権を中国と日本が争った。政府だけではない。王敏氏(法政大)は、世論調査を通して日中両国の若年層に広がる相互不信と無関心を指摘した。アジアの実態は国益の対立であり、不寛容なナショナリズムの衝突である。

 つまり、思い込みを投影した架空のアジアではなく、現実のアジアに目を向けるなら、多くの対立をはらんだ地域が浮かび上がる。そこにあるのは、どれも深刻な問題ばかりだ。

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 たとえば、民主化。韓国でもインドネシアでも軍政は倒れ、民主化には至らない中国でも世論の働きは大きくなった。だが、民主化の進展は、国内の偏見を政策に投影し、政府間の協力を妨げる結果を招くかも知れない。さて、どうすればいいのだろう。

 あるいは、経済。アジア各国の経済は成長し、市場の統合も進んでいる。だが、ヨーロッパと違って経済成長が地域機構の設立に先行したアジアでは、東アジア共同体の呼びかけにもかかわらず地域機構の実現にはほど遠く、逆に中国の台頭は日本との競合も生み出している。どうするか。

 さらに、安全保障。ソ連が解体したヨーロッパと違って共産主義国がなお残り、北朝鮮ばかりか中国・台湾の対立を抱えたこの地域で、どうすれば安全と平和を実現できるのか。軍事的抑止に頼るような不安定な平和を安定した平和に変えることはできるのか。

 これらはどれも現在の選択を迫る問題である。アジアは一つなどと唱えたところで解決にはならない。空想のアジアでなく、地に足をつけて地域の課題に取り組むこと、ここに、アジアを考える意味がある。

 過去においてアジアという言葉が対抗関係のなかで用いられてきたとはいえ、アジアが欧米と対立的な概念であるとは限らない。現在のアジアは、欧米に対抗して内向きに団結するのではなく、グローバル化の進むなかで外に開かれた関係をすでに構築しようとしている。問題は、この関係をどのように制度とし、問題を解決する役に立てるのか、である。

 会合の冒頭で、国分良成氏(慶応大)は、アジアという観念がどのように使われ、操作されてきたかを述べるなかで、「アジアの脱亜」が必要であると訴えた。欧米に対決を挑む昔のようなアジアを脱して、現在のアジアをとらえること、これがこのフォーラムの課題だろう。

 そのことは、未来のアジアのなかで日本が果たす役割を考える手がかりも与えてくれる。國廣道彦氏(元駐中国大使)は、いま日本人が持っている不安に答えを出す議論が必要だと述べた。地域における優位を失った日本人がアジアにおいて誇りの持てる生活をしていくにはどうすればよいのか。この問いに対し、ナショナリズムの醜い衝突ではない出口を探るためにも、現実から出発したアジアの認識が求められている。

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