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朝日新聞アジアネットワーク
AAN発

第7回朝日アジアフェロー・フォーラム

自分で考えていない、自分の言葉で語っていない国

2009年03月30日

【石破茂=農林水産大臣】 農林水産大臣の石破であります。こういう恐ろしい席にお呼びいただきまして、まことにありがとうございます。

 サンドイッチじゃなくておにぎりが出るとうれしかったんですが、サンドイッチであります。なかなか「お米をもう一口食べよう運動」が定着しないなということをしみじみと思っているところであります。

 「日本の針路」という大変なお題をいただきました。各論についてはまた後ほどご質問があれば承りたいなと思います。あまり各論をくだくだと話していてもご迷惑でしょうから。私は代議士になって23年になります。当選7回で、あとどこまでできるか、全部できるはずはないので、何が残ったか、残ったとすれば、それはなぜなのか、それをだれに託すかという、ある意味できちんとした終わり方を考えなければいけない時期になったのかなということを、つらつらと思っているところであります。

 私はいろいろな仕事をしてきましたが、もう少し真っ当な政治のシステムをつくりたいねということはまだ全然できておりません。政治家が、票になるのか、金になるのかという行動原理だけで動いていると、どの党が政権をとってもあまりまともなことになりません。これはどの国もそうなんでしょう。

 日本だけがそうだとは思いませんが、しかしほかの国はよく見えるのかもしれません。外交とか安全保障とかに関して、ほかの国の政治家はもっと自分の頭で考えて、自分で物を言っていると私は思います。

 いろいろな国の方と議論をしていて、まずその大臣クラスが、役人が書いた紙を読むなどというのは日本だけの現象で、ほかの国の大臣はちゃんと自分の言葉でしゃべります。大体メンバーは決まっていて、私も先般、ダボス会議なるものに総理のお供をしてまいりましたが、私以外の経済担当大臣、日本みたいに農林大臣と経産大臣と両方出るという国は少なくて、大体どの国も代表は一人なんですが、お互いみんな知り合いです。

 「この間ここまで話したね、今度はここから話をしようね」ということで、お互いパーソナルな関係もでき上がっている。ところが日本だけは「初めまして」から始まって、「私はかくかくしかじかこういう者で」というのを役人の書いた紙を読んでいる。

 私は去年の9月に農林水産大臣というものになりましたが、2年で私で6人目の大臣です。「どうせ君は来年いないんだからね」みたいなことになってしまうわけですね。議論の経過も知らなければ、個人的な関係も築けていない。来年のことに責任が持てない。それでは外交になりません。それは防衛大臣のときも一緒の思いをいたしました。ちなみに一昨年の9月、私は防衛大臣というものになりましたが、9カ月で4人目の大臣でしたから。

 例えば東京都知事が2年で6人変わるということはありえない。鳥取市長が1年で4人変わるなどということもあり得ない。もちろん大統領制と議院内閣制の違いはありますが、これは恐ろしく国益を損なっていると私は思います。別に自民党でも民主党でもどっちでもいいんですが、政権が安定してある程度継続する、そういうシステムがどうすればつくれるのか。この議院内閣制のもとでそういうことができるか。憲法改正を伴いますから、大統領制に移行することはそんな簡単なお話ではありません。

 今の議員内閣制のもとで、そして与野党ねじれ現象というのは、別に天変地異が起こったわけではなくて、それは当然予定されていることなのです。そういうことは当然あり得るだろう。だから衆議院の3分の2の優越というものが憲法上、ちゃんと規定されているのです。直近の民意が参議院だからというのは、それは憲法の精神を理解していない人の言うことであって、こういうことは当然起こり得るから3分の2の優越権というのを与えられている。そういうものだと私は思っています。

 このねじれ現象というのは当然あり得る。国家の課題が山積しているので、私は大連立というのは一つの方策ではあっただろうなと思います。ただ小選挙区制――岡田さんたちと一緒に一生懸命やりました――小選挙区制度を入れたのは、国民の手によって政権交代が実現できるシステムをいれたかったからです。それがそのとおりに今、起こっているだけのことなのです。それはそれで健全な現象だと私は思っています。

 しかしながら、そこでねじれ現象というものが起こったときに、それをどうするんだとの知恵がこの国にはあまりありません。大連立はその一つの方策だったと思います。思いますが、私は福田政権のときに防衛大臣でございましたが、何であの大連立に反対したかといえば、それは外交安全保障観が全く違う、それで大連立というものはどうしてもおかしい、そこさえクリアできれば、大連立も緊急避難的に――あえて緊急避難的にと申しますが、それは小選挙区制のシステムとしておかしいので緊急避難的にと申しますけれども――それはあり得べしだろう。

 民主党の若手の方とも――現職大臣があまりやっていいことではありませんが――議論をしました。議論はしましたが、どうしても私には理解不能な「国連絶対主義」というものをお譲りにならない。それ(国連絶対主義)はやはりやってはいけないことなのだ。ユナイテッド・ネーションズはあくまでユナイテッド・ネーションズであって、インターナショナル・ガバメントではない。国際連合という訳し方をしちゃったのでそんなことになりましたが、当然漢字使用国のご本家であるかどうかは知りませんが、中華人民共和国におきましてはユナイテッド・ネーションズは連合国と訳しているのであって、国際連合などという訳し方はしない。国家主権というのは絶対に消えるものではない。国連というものを持ち出せば、憲法第9条第1項の「国権の発動たる」という言葉が消える、というわけでは絶対ないと私は思っています。ですからこれだけは絶対に譲れないということを申し上げました。

 それで大連立というものが行われなかった。行われなかったがゆえにいろいろな問題が起こっている。これは極めて残念なことだったと私は思っております。ほんとうは政界再編なるものが行われるべきだと思っておりまして、それが選挙の後行われるというのは、これは一種の詐欺に近いものでございます。どういう政権の枠組みを選びますか。すなわち大統領制ではありませんので、私どもも時々そういう間違った言い方をするのですが、「だれを総理にしますか」というのが正式に言えば小選挙区制ではありません。「どういう政権の枠組みを選びますか」が小選挙区制度であって、「だれを選びますか」ということではそれは大統領選になってしまうのであります。

 現行憲法の範囲内で、なるべく直接公選に近づけよう。少なくとも私はそう思っておりました。それで小選挙区制というものを入れたのですが、基本的には政権の枠組みを選ぶシステムでございます。

 ただそうであるにせよ、私どもが新進党にいたときに奇想天外、自社さ連立(注:1994〜1998)というものが起こりました。あれこそ政権の枠組みをひっくり返したものでございまして、あれはすぐに解散総選挙が行われるべきものでございました。だから、その辺の仕組みがよくわかっていない人が多い。ほんとうは政界再編というものは選挙の前に行われなければそれはおかしい。仮に今の枠組みのままで総選挙を行い、その後、政権の枠組みを変えるのであれば、すぐさま国民に信を問わなければおかしなことになると思っております。それは自分たちが選挙に勝つとか負けるとか、与党でいるとかそうじゃないとか、そんなことはどうでもいいのでありまして、国民がどういう枠組みをきちんと選んでくれるか、ということであるからです。

 そしてマニフェストが盛んなんですけれども、これも若いころ議論をしたのですが、公約をずらずらと並べるのは願望の表明でしかない。「こういう政策をやります。そのためにはこのような法律が必要です。そのためにこういう財源が必要です」。3点セットを提示して、それがパッケージとして整合性がとれていないと、それは政策としての価値を持たないのだと私は思っております。

 ただ残念なことに、一昨年の参議院選挙では、どうもそこが私どもも民主党も徹底をしなかった。財源論まできちんと詰めなかったし、法律論まできちんと詰めなかった。いや詰めたぞと言われるかもしれませんけれども、その後、例えば農業政策なんかはあちらこちら修正が出ております。私は最近「農政ではおまえは民主党寄りではないか」とさんざん自民党からおしかりをいただいている人間でございますが、そんなことはどっちだっていいんです。

政治の仕組みと外交の基本を考えよう

 危機的な状況になると、私は所信表明でもよく申し上げるんですが、我々に残された時間はものすごく短い。そしてまじめに考えれば、政策選択の幅はものすごく狭い。そう考えると、議会というのは、与党と野党、何が国民のためにいいかという妥協点を見つけるのが議会なのであって、「与党の主張がこう」、「野党の主張がこう」とか、そういう話ではないのだと私は思っているのですが、そこの議会の機能がもうちょっとうまく動かなければいけないと思っているのですけれども、「もう少しマニフェスト、公約の出し方をきちんとしなければいけないね」という思いもいたしております。

 政治の仕組みをもう少しきちんと考え直したいというのがひとつ。そうしないと、日本の針路は定まりません。政治家がああだのこうだの言っても、天気予報じゃありませんので、そのとおりにならなければ意味のないことでございます。

 日本人が日本人の頭で物を考えなくなっちゃった。それはやっぱり日米安全保障条約というものが大きいんだろうと思っております。私は個人的見解としてはばりばりの憲法改正論者でありまして、集団的自衛権合憲論者でございますが、結局そこまで突き詰めて考えないと、日本人が日本人の頭で物事を考えるという、そういう思考の形態が相当に奪われている、一種の思考停止に陥っているのではないかという思いがあります。念のため申し上げておきますが、私は独力防衛論者ではありません。そして核武装論者でもございません。日米安保は堅持すべきだと思っている人間でございます。

 思考停止の例として、非常に典型的な倒錯的な論理がございますのは、「米軍出ていけ」と言う人たちが「集団的自衛権反対」と言う。これをあまり人が不思議に思わないということでございます。つまり日本は、憲法のどこから出てくるか私は怪しいものだと思っているのですけれども、「とにかく集団的自衛権は持ってはいるが行使はできない」ということになっております。

 アメリカは日本が攻撃をされたら防衛する義務を負っています。日本はアメリカが攻撃されても防衛する義務を負いません。「アメリカを防衛する力なんてどの国も持っていないよ。だからそんなことなくてもいいんだよ」というのは何の理屈にもなりません。では韓国が合衆国を防衛する能力を持っているか。だれもそんなもの持っているとは思いません。アンザス条約がありますが、オーストラリアあるいはニュージーランドがアメリカを防衛する能力を持っているか。持っているわけではありません。かつての米比安全保障条約もそうです。それは能力を持っているとか持っていないとか、そういう問題ではなくて、独立国同士、対称的な――対称的なというのは、照らすというほうじゃなくて非対称という字を書く対称のほうですが――同じ義務を負わなければおかしいのだと。非対称的双務条約というのは、安全保障に関して申し上げれば、世界の中で日米安全保障条約しかございません。いろいろ見ましたが、ほかにこんな条約はございません。国が強いとか弱いとか、大きいとか小さいとか、そんなことは何の関係もないのであります。

 アメリカは日本を防衛する義務を負う。日本はアメリカを防衛する義務を負わない。それは不公平ではないかということで、日米安全保障条約第6条によりまして、「極東の平和と安全のために行動する合衆国軍隊のために」――ということは合衆国の国益のために、というのとかなり重複をいたす概念だと私は思っておりますが――日本国は合衆国の軍隊に施設、区域を提供しなければならないという義務を負っているわけでございます。この条文は義務的に読むのが正しいのだと思います。

 つまり集団的自衛権が認められないために、合衆国は権利として日本に駐留しているのです。これはおかしいではないかということで、昭和30年に鳩山政権の外務大臣重光葵は、合衆国のダレス(国務長官)と交渉する。日本は集団的自衛権を行使してグアムまで守る。だからアメリカは日本の領土から撤退してもらいたいということを申し入れたのが昭和30年のお話でございます。

 そのときにダレスが言ったこともその後の手記のようなものも全部記録になって残っておりますし、公開もされておりますが、要は「日本はとうとうフィリピンみたいなことを言い出した」というくだりがございます。合衆国にとっての国益は日本に集団的自衛権を行使されることではない。日本の基地をできるだけ長く、できるだけ自由に使えるのが合衆国の国益である、ということを言っております。

 爾来五十数年がたちました。今でもそうなのだろうかという問いかけが、ほんとうは憲法改正の議論のときになされなければならなかったはずです。その議論をきちんと突き詰めて行っておりません。あるいは文民統制の議論がいかに不徹底であるというのは、田母神問題を見ればすぐにわかります。

 阿南惟幾(降伏時の陸軍大臣)は二・二六事件のときに幼年学校の校長でしたが、生徒を集めて、政治に対してそのような発言がしたければ軍服を脱いでやれということを、相当きつく言っているという記録が残っております。文民統制についての考え方もほとんどの人が理解できていないし、国民もわかっていない。これはものすごく危ういのだと思っております。

過去の検証なしに将来を語ることは無意味

 そしてまた、何で日本はあのような戦争になったか。なぜ途中でやめられなかったか。「ハル・ノートを突きつけられたらやらざるを得ない」という議論がありますが、私はそうだとは思っておりません。ハル・ノートを受諾する余地があったかなかったかという研究はほとんど行われていない。そしてなぜあのような負け方をしたか、そして戦後なぜ日本はこのようになったかということを全く学んでいない。過去に学んでいないということは、これからも同じ過ちを犯すということなのです。日米の関係をきちんと見るという思考をしなければいけないのではないでしょうか。

 何で日本はあんなにアメリカの国債を持っているのだ。何でプラザ合意のようなことになったのだ。なぜドルで持っているのをユーロに替えておかなかったのだ。あるいは中国と同じようにかなりの外貨を保有していますが、その使い方をどうするのか。私は「戦略的思考」というのを軽々しく使うのは嫌いなのですが、その考え方ができない根底は一体何なのだというところまで突き詰めて考えないと、世界史の大変革期に、この国はほんとうに生きていけるのかという思いがいたしております。

 食糧にしても同じ話であって、自給率が低い、低いといって大騒ぎをいたしますが、こんな飽食の生活の自給率を守ることが、国家安全保障にとって必要かといえば、それは絶対に必要ではないのです。本当に守るべきはは農地であり、農業者の数であり、農業者の若年者の割合であり、農地面積であり、そして生産額のはずなんです。この全部が低落傾向にあって、これをどうやって変えるかということ。そして本質的な議論をほとんどだれもしないのですが、日本の場合には、農地が資産としての価格を持っている。そんな国は日本しかありません。だから農地の集積が進まないのです。ここの議論をほとんどしてこないままにここまで来ちゃったということは一体どういうことだと思います。

 私は日本の針路ということについて語るほど知識はありませんが、ほんとうに本質論にきちんと目を向けて議論しよう。そういう話はマスコミにも受ける話じゃございません。いくら言っても取り合ってもらえません。

 今度の海賊対策でもワーワーといろいろな議論がありますが、だから言ったじゃないの、一般法というものをちゃんと冷静なときに議論しないからこんなことになる、という思いが私にはあります。何かあるたびに特措法でやっていてはだめだろう。一般法というものを、どこが憲法の制約なのか、自衛権なのか、警察権なのか、その議論もふくめて、きちんとしなければいけない。

 ミサイル防衛だってそうです。ミサイルが当たるとか当たらないとか、そんな議論をしていますけれども、当たる確率が問題なわけではない。国民避難がきちんとできるか、そして核の傘というものが有効に機能するか、それがミサイル防衛と併せて重層的に機能すれば、我が国の抑止力が保たれる、という話なんです。

 この話をもって終わりますが、核の傘の実効性について一度でも日米間で検証したことがあるか。また国民避難というものをどこまで議論したか。それは広島・長崎に原子爆弾を落とされ、あれだけの人を死に追いやった日本国としての責任ではないのか。きちんと議論をすること。そして沖縄戦で政府がきちんとした対応をとらなくて、多くの人命を失うことになったことに対してきちんと報いるのも日本国の責任ではないか。

 嫌なことは見ないことにしようという国家は、必ず同じことに逢着するに違いない。日本の針路を決めるためには、将来のことを見るのも大切でしょうけれども、今までなぜ我々はこのようなことになったのかということをきちんと検証することなしに、将来を語ることは無意味だと、このように思う次第でございます。以上でお話を終わります。(拍手)


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