前々回の永持さんは、中国社会が巨大人口圧力をかかえている点を強調されましたが、社会学者のE・デュルケームによれば、人口圧力の高さは社会の多様化と分業を促進する、といいます。都市民と農民、リッチマンにプアーマン、善人と悪人。確かに中国には、日本では想像できないほど多様な人々が住んでいます。
しかも、改革・開放後の変化のスピードたるや、これまた私たちの想像をはるかに越えています。そのため、インターネット・カフェが林立し、携帯電話が急速に普及しているかと思うと、今でも電気や水道が通っていない農村があるといった具合に、「ポストモダン」と「プレモダン」が同時に存在することになります。
こうした中国社会の変化を反映してか、私が勤務する中央大学でも「中国社会のことを知りたい」という学生が着実に増えていますが、彼ら、彼女らを前に話をする際に苦労するのが、この多様性をうまく伝えることです。7月26日付『朝日新聞』の7面に「郷長直接選挙再び実施」と題する記事が掲載されていますが、この農村での選挙導入を例に、中国社会の多様な姿を伝えることのむずかしさの一端をご紹介しましょう。
この記事も紹介しているように、農村ではこの十年ほど、村民委員会という農村の末端自治組織の幹部を選挙で選んできました。共産党による一党独裁を維持しながらも民意を反映した幹部の選出が模索されてきたのです。
では、こうした選挙の導入は人々の意識を変えることになるのでしょうか。昨年、中国人研究者と共同で農村での選挙導入に関する意識調査を行ったところ、大変興味深い結果が得られました。調査対象となった農民たちは、選挙導入を積極的に評価していながらも、郷レベルですぐにでも選挙を導入すべきだとは考えていない。自分たちの利益を代表する幹部を選挙によって選ぶのは当然だと考えているものの、民主建設の旗振り役は国家の仕事だと思っている。村の運命と自分たちの生活が大きく結びついていると考えている一方で、村人と上級政府の間で対立が生じた場合、村民委員会は上級政府の意見を聞くべきだとする回答が少なくない。調査結果は、このように村人が実に矛盾した意識をもっていることを明らかにしていました。
都市でも最近、部分的に選挙導入が試みられるようになりましたが、私たちが行った都市調査は、農村におけるそれと異なる結果を示しています。都市の人々は、農村の人々のように地域共同体がみずからの生活と密接に結びついているとは考えておらず、依然として国家に対する強い依存意識を抱いている。選挙のプロセスや結果については、農民ほど肯定的には評価しておらず、「あくまで国家による探索的な試み」として冷ややかに見ている。他方で、上級機関での選挙導入には比較的積極的で、農村以上に上級政府の意見を聞くべきだとする意見は強くない。
こうして見てみると、中国を語る際にいかに逆接(〜ものの、〜だが)や並列(〜の一方で、〜でありながら)が多く用いられるかが理解されようというものです。多様な世界を表現する方法としての逆接や並列。中国社会の変化を学生に教えるむずかしさは、この逆接と並列の多さにあるといっても言い過ぎではありません。
では、急速に動いている中国を理解する際、日本人は、その逆接と並列の多さに堪えられるか。私たちAANの研究メンバーは、こんなところにも注意を払いながら議論をしています。