前回の書評で、北朝鮮に対する姿勢として、「対北朝鮮『硬派』に特に不足しているのは、2300万人の北朝鮮の人々の日常、考え方、感情に対する理解、あるいは想像力ではないか。そうしたものが浮かんでくると、『がつんと(当たる)』という発想はなかなか浮かんでこないのではないか」と記した。
今回の本は、秒読み段階に迫っている様相となってきたイラク攻撃について、評者の書いたことをもっと具体的に、もっと深く、かつ冷静に記した反戦の書だ。結果的に、その訴えは読み手の感情や想像力に響いてくる。
ハトラというイラク北部の遺跡で、石材をゆっくりと丁寧に削っていた老石工を見て、そのさまに「威厳」を感じた後、著者は小さな橋を渡る。その瞬間に、戦争の具体的なイメージがはっきり迫ってきたという。
「近隣国にあるアメリカ軍基地の倉庫の中か洋上の空母の上に、この小さな橋の座標を記憶した巡航ミサイルが待機している。遠くない将来にそれが飛来して、青い空から一直線に落下し、爆発し、この橋を壊す。そういう情景がくっきりと浮かんだ」
アフガン戦争でも湾岸戦争でも問われた「ミサイル」という兵器の非人間性。「アメリカ側からこの戦争を見れば、ミサイルがヒットするのは建造物3347HGとか、橋梁4490BBとか、その種の抽象的な記号であって、ミリアムという名の若い母親ではない。だが、死ぬのは彼女なのだ。ミリアムとその三人の子供たちであり、彼女の従弟である若い兵士ユーセフであり、その父である農夫アブドゥルなのだ」
武田徹の「戦争報道」(ちくま新書)の書評で、こういうものがあった。「興味深いのはベトナム戦争と開高健についての節だ。開高は戦争中のベトナムを見て『ベトナム戦記』を書いたが、見ることだけに徹したそのルポは、吉本隆明や三島由紀夫に批判された。ところが長い時間をへてみると、同時代のジャーナリストとして評価の高いハルバースタムや岡村昭彦には見えていなかったものが、作家である開高健には見えていたことがわかる」(週刊朝日・永江朗)
イデオロギーや概念からできるだけ離れて、つまり、「戦争」を見るのではなくて「戦争の時間を生きる人間」を見る姿勢。これは別に文学者だけの特技ではなくて、「報道」がいかに読み手・(映像の)受け手に深く届くかを考えるうえで有用だ。
池澤はこんな(報道側には耳の痛い)指摘もしている。「新聞やテレビは国際問題を詳しく報道する。しかしその大半は各国政府と国連との間のかけひきの話であって、それによって運命を大きく左右される普通の人々のことはほとんど話題にならない。結局のところ新聞は国際問題の専門家を自称する人たちの業界紙でしかない。戦争が国民にとってどういう現実か、新聞やテレビからはなかなかわからないのだ」