「中・ロ国境の実相を『蟻の眼』で描くアカデミック・ルポ」というのが帯のことばだ。「行動する国際政治学者」の著作ということばもある。行動する国際政治学者の本といえば、故秋野豊氏の「ユーラシアの世紀」(日本経済新聞社刊)が思い浮かぶ。ジャーナリスト顔負けの現地直接取材で人々の本音を聞き出し、広大なユーラシアの社会の、国際政治や経済と絡み合っての巨大な胎動を描いた遺作だった。「中・ロ国境4000キロ」は、それに比べれば中ロの地方誌紙をベタ記事にいたるまで丹念にチェックし、それを大きな体系にまとめた作品だ。
評者が個人的に興味深かったのは、中ロ両国が開放経済に政策をシフトさせることによって「国境」に具体的にどんな現象が現れるかが改めてよく分かったことだ。
それは1992年のことだった。「両国の歩調をあわせた『開放政策』により、1992年から93年にかけてロシア極東と中国東北地方の貿易は一挙に上昇した」。中ロ国境の黒河の出入国者数は91年の約8万人(うち中国側約3万6千人)が92年に14万2千人(同約6万人)に跳ね上がった。「両国民の国境への殺到は、ロシアにとって特別な意味をもたらすものだった。極東ロシアの人口は約700万人であるのに対し、中国東北三省の人口は一億を超えるといわれ、ここには人口圧力の絶対的な格差が存在する」。
そして、さらに興味深い、人間社会ならではの現象が顕在化する。「行列を待たない、痰をはく、交通規則を守らない、集団で騒ぐなどの『中国的マナー』は、多少なりとも『ヨーロッパ的な誇り』を持つロシア人にとっては侮蔑の対象であったが、いまやそのような『中国的世界』がロシア人の生活を脅かし始めた」。その結果、93年から94年にかけて中国人に対する拒絶的な反応が極東ロシアに広がり、ついに94年1月、ロシア政府は中ロのノービザ往来を規制し、中国人の入国を厳しく管理し始めた。
「国境紛争」にまでつながりかねない国境の人臭いありようを(報道などを駆使しながらであれ)できるだけ具体的に描いた本はあまりなかったかもしれない。ただ、ことに中国側の記述について「天安門事件鎮圧の功によって党総書記に抜擢された江沢民」など、粗い記述が残っていることは惜しまれる。