東アジアの地域統合や東アジア諸国の連携を説く論者は多い。しかし、そのための共通の思想的文化的基盤はあるのだろうか。
著者は東アジアの特徴を、儒教を副次的要素とする中華思想を分有することだと考える。それは、共通の文化的伝統ではあるが、相互の連帯を阻害する方向に作用する。中華思想とは、いうまでもなく、自国が世界の中心とし、他を野蛮と見る思想である。そういう思想は世界中にある。中国の中華思想の特色は、礼を重視することである。
礼とは、忠や孝のような徳目を表現するためのマナーのことである。たとえば士大夫(したいふ)が父の喪に服する場合、もがり前には、藁(わら)小屋に住み、土の塊を枕に、こもに寝て、昼夜の別なく哭(な)き、水物を口に入れないとされる。それが礼であり、文明の証しであった。
中華思想は東アジアに広がった。べトナムは15世紀になると、自らを中国(北国)と対等の南国であるとし、ラオスやカンボジアに対して中華思想で臨んだ。朝鮮でも17世紀には自らを小中華と位置づける思想が登場し、日本などは野蛮な夷狄(いてき)だと見るようになった。とくに礼を重視した朝鮮から見れば、ちょんまげ、褌(ふんどし)の日本は最悪だった。一方、日本では、礼ではなく、天下泰平を誇りとする皇国思想が、江戸時代に発展した。
このような東アジア世界で、礼軽視の日本が大陸に膨張したのだから、問題は複雑かつ深刻だった。一方で日本のアジア主義者たちがなぜ挫折し続けたかも、連帯感と優越感の交錯という点から、分析されている。
著者は、今日の東アジア連帯の思想にも疑問を投げかける。日本のナショナリズムに対して批判的なのに、韓国や中国のナショナリズムには無批判ではないか。東アジアに自然な連帯の条件があると考えるのは幻想ではないか。そんなものは存在せず、むしろ阻害条件が存在する。そういう事実を直視することが必要だと著者は述べている。傾聴すべき意見である。中華思想をてがかりに北朝鮮を分析した論考も大変面白い。