外から見ても、内から見ても、日本という国の生き方を説明するのは難しい。日本なしの世界が考えられないほど重要な存在では恐らくないが、完全に無視できるほど無意味な存在でもない。また、多くの日本人は原理原則に基づいて世界を動かそうというほどの意欲はないが、全くの無原則で受動的な存在でいることには満足できそうにない。
戦後日本の生き方は間違っていなかった。しかしその生き方を明瞭(めいりょう)に表現する言葉をもたないことで、日本外交は自信を欠いたものとなり、また疑念をもって見られているのではないか。東アジアの国際政治を専門とする著者の問題意識はこの点にある。
著者の解答は日本を「ミドルパワー」と位置づけることである。「ミドルパワー」とは、国際政治の基本的な秩序を構成する大国ではないが、国際秩序に対して一定の修正を促すことができる程度の力をもつ国家のことである。それはカナダやオーストラリアが自らの外交を表現する際に用いた言葉だが、著者は占領期から現在に至る日本外交の軌跡を追いながら、「ミドルパワー」という言葉でそこに首尾一貫したイメージを提示しようとしているのである。
もっとも、「ミドルパワー」という言葉がどれほど落ち着きがよいかには、疑問もある。軍事に関与せず、経済と文化で世界に貢献すると言えば、大概の人は賛成だろうが、インスタントラーメンやエコカー、アニメで日本はやっていくと言うと、正直物足りない気もするのではないか。
しかし、そうしたことは著者も百も承知のはずで、著者の意図はより実践的な所にありそうである。第一に、国際秩序の基本を構成する力としては今日でも軍事力が不可欠であることを認めた上で、日本はそのゲームに参加しないことを宣言すること、第二に、アジアの中で台頭する中国と同じレベルで競い合うのではなく、他のアジア太平洋諸国と連携するという視点から長期の戦略を構想すべきだということである。声高ではないが、折り目正しい外交論である。